あなたの直面する問題や悩みも創造者の手にあることを知ります

9月21日

「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」イザヤ40:26a

 神様の性質は多種多様で、一言では尽くせません。そのような中で、創造の神に目をとめるようにと促されています。日常生活は人の力やわざ、知恵がはびこって、人の思いが中心になり創造の神を忘れるからです。人の世の様々なわざから、目を高く上げ、森羅万象が不変不動の秩序で運行する姿に思いめぐらすなら、あなたの直面する問題や悩みも創造者の手にあることを知ります。人を越える絶大な力に身をゆだねようではありませんか。(KE)

みことばを通して神様の霊が働き、内なる人を成長させ、強くしてくれます

9月20日

「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」第一ペテロ2:2

 私たちは常日頃健康にはことのほか気を配ります。ところが、内なる魂の健康については無頓着です。広い意味で心を養い育てるものは神様から注がれる命です。それはみことばを通して神様の霊が働き、内なる人を成長させ、強くしてくれます。成長期の子供たちは体のために盛んに食べますが、私たちも霊の乳なるみことばをしっかりといただこうではありませんか。(KE)

人々の心が頑なで、神様を信じようとしないからです

9月19日

「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。」マルコ3:5a

 イエス様は柔和で、忍耐強く、寛容な方ですが、このときは「怒りを含んで」普段と違った感情を表しています。それは人々の心が頑なで、神様を信じようとしないからです。しかも、彼らは自分たちを“神の民”と称していたのですから。神様を畏れない態度、本音と建前で生きようとする姑息な態度にイエス様は怒りを含んだ厳しい態度をとられます。あなたの心はいかがですか。(KE)

主の十字架が「罪のゆるし」のためであることをはっきりと語っています

9月18日

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」マタイ26:28

 最後の晩餐の席で、イエス様が弟子たちにぶどう酒を与えて、主の十字架が「罪のゆるし」のためであることをはっきりと語っています。神様が私たちの罪を赦すために御子イエス様を世につかわし、十字架に滅ぼして、信じる私たちを清め、新しく生きるものとして下さいました。その約束を血判によってあかししたのです。それに対して、私たちもまた命を奉げて主のご愛に応答しようではありませんか。(KE)

広い門と道を備えておられるのですが、残念なことに多くの人がそこへ行こうとしないのです

9月17日

「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」マタイ7:14

 イエス様の救いは決して狭い門でも、細い道でもありません。いや、それどころか、すべての人々のために救いを完成してくださったのです。広い門と道を備えておられるのですが、残念なことに多くの人がそこへ行こうとしないのです。門を狭くし、道を細くしているのは私たちの頑なで強情な心と不信仰のゆえです。主は今日も御手を広げて、私の所へ来なさいと招いておられます。砕けた悔いた心になって命の道を進んでください。(KE)

心の目が開かれると、肉眼に見えていたもののなかに主を見ることができます

9月16日

「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が、見えなくなった。」ルカ24:31

 よみがえったイエス様はエマオへ行く弟子たちと共に歩いて行かれましたが、彼らはそれが主であることがわからなかったのです。一緒に食事をしているとき、彼らの目が開かれました。今、イエス様を肉体の目でみることはできません。しかし、心の目が開かれると、肉眼に見えていたもののなかに主を見ることができます。ある種の神秘的体験のようですが、肉眼に見えないものを心眼で見る経験は一般的です。(KE)

全能者であり、万物の創造者ですから、ちっぽけな期待では失礼です

9月15日

「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」詩篇81:10b

 人になにかを期待する時、相手の力を計ります。出来そうもないことを期待するわけにいきません。ところで、神様に対してはどうでしょうか。案外、神様に対しても同じように考えているのではないでしょうか。神様でもこれは無理だろうと。もしそうであれば大間違いです。神様に期待するにあたって、相手は全能者であり、万物の創造者ですから、ちっぽけな期待では失礼です。ここは口を大きく開けて、待ち望みましょう。主は応えてくださいます。(KE)

それは人の心に神様を畏れる思いが無くなったからです

9月14日

「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」箴言17:1

 “衣食足りて礼節を知る”と古来言われてきましたが、現代の社会を見ていると、とてもそうとは思えません。家庭も社会も、衣食が余るほど物質的には人類最高の豊かさを誇っています。しかし、それに比例して人の心は冷え、争いが絶えず、平穏は失われて、礼節が消えてしまいました。それは人の心に神様を畏れる思いが無くなったからです。貧しくても豊かでも、神様の恵みを感謝する者でありましょう。(KE)

神様が全てを見ておられたことに驚き、また喜びました

9月13日

「そこでハガルは自分に語られた主の名を呼んで、『あなたはエル・ロイです』と言った。」創世記16:13a

 「エル・ロイ」とは「汝は見たもう神なり」という意味だそうです。女主人にいじめられて荒野を放浪していたハガルは神様に出会いました。誰も知らないと思っていたとき、神様が全てを見ておられたことに驚き、また喜びました。神様はあなたに目をとめておられます。それは懲らしめようとの監督者の目ではなく、良きことをしてあげたいとの愛に満ちたまなざしです。私たちもこの方に目を向け、呼び求めましょう。(KE)

神様の言葉を素直に受け入れて信じると、やがてそれが成長して実を結ぶのです

9月12日
「また、良い地にまかれたものとは、御言(みことば)を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」マ タイ13:23  
イエス様が語られた種まきの譬えですが、ここで言われる「種」とはみことばです。神様の言葉を素直に受け入れて信じると、心の深層にとどまって、やがてそれが成長して実を結ぶのです。そのために、みことばに絶えず触れていることが必要です。なにかのときに、聖霊は忘れていたみ言葉を思い起こさせてくれます。(KE)