救いとは、人生・生活が神様、主のものとなることです

5月20日

「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」ローマ14:8

  救いとは生きる目的が変わることです。自分のもの、自分のためであった人生・生活が神様、主のものとなることです。生き方の大前提が変わるのですから、日々の生活がすべて変わります。なによりも、自分が責任を負わないでいいのですから、これほど楽なことはありません。あなたが人生全般を握っているかぎり、安心はありません。所有権を手放しましょう。(KE)

神様が喜んでくださるのは私達が信仰に生きるときです

5月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」 ヘブル11:6a

  神様が喜んでくださるのは私達が信仰に生きるときです。捧げ物や犠牲的な奉仕、慈善的事業など世間が称賛する外的行為を喜ばれるのではありません。勿論、それらが信仰に因るものなら、そのゆえに神様は喜ばれますが、神様は常に動機を探られます。どんなことでも神様のゆえに、神様の報いを信じてなすならば、どんなに喜ばれることでしょう。今日も神様に喜ばれる一日を過ごしてください。(KE)

真の父を知り、信頼するならば、幼子のような平安が得られます

5月18日

「また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」マタイ23:9

  私たちは、父といえば肉親の父を思いますが、それは地上にある間のことにすぎません。「父」としての役割・力を真に体現しているのは神様です。肉親の父は限られたものですから、無力・無知です。不完全な故に子たちは不安を覚えるのです。しかし、真の父を知り、信頼するならば、慈父の手に抱かれた幼子のような平安が得られます。(KE)

人が共感し共有することは不可能ですが、神様は私たちの心の隅々まで知っておられます

5月17日

「心の苦しみは心みずからが知る、その喜びには他人はあずからない。」箴言14:10

 苦しみや喜びは心で感じ、知るものです。同じことであっても、人によって感じることが違います。苦しみや喜びはその人自身のことであって、他者は感知しえません。推測に基づいて同情はできても、共感し共有することは不可能です。その意味で、人は孤独だといえますが、神様は私たちの心の隅々まで知っておられます。これこそ私たちの慰めであり、励ましです。苦しみが自分だけであるとすれば、喜びもまた自分だけのものです。(KE)

神様は血判を押した契約書をあなたに差し出しています

5月16日

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」マタイ26:28

  最後の晩餐といわれる夕食の席でイエス様が語った言葉です。ここで主ははっきりとご自分の十字架が何を意味しているかを明らかにしています。「罪のゆるし」を保証する契約であると。契約は一方だけでは成立しません。双方の同意が必要です。神様は血判を押した契約書をあなたに差し出しています。しかも無条件です。さて、あなたはどうしますか。主の言葉を素直に感謝してうけるなら、なんと幸いなことでしょう。(KE)

主のために生きる。それは主に仕える下僕としての生涯です

5月15日

「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。」使徒20:19

 パウロはよみがえられたイエス様に出会って人生が一変しました。生きる目的が変わったのです。自分のため、世のため、家族のためではなく、主のために生きる。それは主に仕える下僕としての生涯です。しもべは主人に喜ばれることを第一に考えます。パウロは主に仕えるゆえに困難や迫害に遭いましたが、自分を捨てて、主に喜ばれる道を歩みました。(KE)

主のために生きるとは、たえず主の御旨を求めることになります

5月14日

「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」エペソ5:17

 主のために生きるとは、私たちの生活全てが、有形無形を問わず、主に喜ばれるものとなることです。常に、何をするにも、また語るにも、これが主によろこばれることだろうかと考えなければなりません。主が喜ばれるのは御心にかなうことですから、たえず主の御旨を求めることになります。ただ自分の気分や感情、損得利害、情欲などに振り回されず、主の御旨に全く従い、主に喜ばれる日々を送ってください。(KE)

魂が養われていなければ永遠の命につながることができません

5月13日

「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」第一ペテロ2:2

 確かに乳飲み子はお乳を飲むこと、眠ることに専念します。それによって成長するのです。私たちはいまさら成長する余地はありませんが、魂はどうでしょうか。身体を養うに熱心ですが、魂が養われているでしょうか。それがなければ永遠の命につながることができません。そのために必要なものは「霊の乳」であるみことばをしっかりいただくことです。(KE)

残念ながら求めるものが違ってしまったのです

5月12日

「人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません。」エレミヤ16:20

 日本には「八百万(やおよろず)」もの神々がいるともいわれています。誰も数えたわけではないでしょうが、それは人の心の不安や恐れを現したものです。思いがけない不幸や災難、自分の力の及ばない事態や問題にあたって、超自然的な力を求めざるを得ないからです。それは本来人に備わった霊の働きですが、残念ながら求めるものが違ってしまったのです。真の神様を求めることが大切です。(KE)

神様の一方的な愛によると言うほかありません

5月11日

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩篇8:4

 神様がひとり子を十字架につけるほどに私たちを愛してくださるとは、なんとおどろいたことでしょう。そうしてもらう値打ちや価値があるというのでしょうか。ただ、神様の一方的な愛によると言うほかありません。これほどの愛を抱いて下さる方があなたのために悪しきことをなさるでしょうか。そればかりか、休みなく私たちにみ心を向けてくださっているのです。感謝するほかありません。(KE)