たとえどんなに闇が深くあろうと、上には救い主を指し示す光が輝いています

12月25日

「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」イザヤ9:2

 2020年、クリスマスおめでとうございます。今年はコロナ感染の不安と恐れに捕らわれた一年でした。望みのない、また得体のしれない不安が心を闇にして、常ならぬ人の悪が支配しています。たとえどんなに闇が深くあろうと、上には燦然と輝くベツレヘムの星、救い主を指し示す光が輝いています。さあ、この方をあなたの心に迎えようではありませんか。(KE)

神様の前に自らを低くするからです

12月24日

「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った」。ルカ1:38

 毎年繰り返されるクリスマスの物語は聞くたびに心が温かくなります。その理由はマリヤにしろ、ヨセフにしろ、神様に負わされた使命がどんなに厳しいものであっても、謙遜の限りを尽くして従順に従う姿にあります。人にへつらい、繕うのではなく、全能者である神様の前に自らを低くするからです。あなたもマリヤ・ヨセフになってください。(KE)

あなたがどのような苦しみや悲しみにあろうと、神様の愛を疑ってはなりません

12月23日

「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」ローマ8:32

 神様は徹底して私たちの側に立ってくださるかたです。御子すらも惜しまないかたが、そのほかのことで何を惜しむことがあるでしょうか。十字架を通して現された神様の愛は限りないものです。あなたがどのような苦しみや悲しみにあろうと、神様の愛を疑ってはなりません。また、自分に失望落胆しようとも、神様は決して見捨てることはありません。(KE)

神様は造物主ですから、何もかも知っておられます

12月22日

「その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」ルカ12:7

 自分のことは自分がよく知っているといいますが、自分の頭の毛が何本あるか、知っている人はまずいません。実は自分のことすら何も知らないのです。しかし、神様は造物主ですから、何もかも知っておられます。そればかりか、養い生かして下さっているのです。だから、思いわずらうことを止めて、神様を信じて備えられたものを感謝しつつ、導きに委ねましょう。(KE)

造り主なる神様には明確な意図があり、計画があってわざをなさるのです

12月21日

「われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」イザヤ64:8bc

 私たちは陶器師の手に握られた粘土です。粘土は自分で好き勝手に用途や形を決めることは出来ません。陶器師によってそれぞれの器に仕上げられるのです。同様に、神様の手に握られ、日々造られている私たちです。思いがけないこと、願わないことなどがあります。しかし、造り主なる神様には明確な意図があり、計画があってわざをなさるのです。一握りの土くれにすぎないものですが、神様のみ手にあることを信じましょう。(KE)

確かな結果を握っている彼はどんなに言われても動きません

12月20日

「ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。」ヨハネ9:25bc

  生まれつき目が見えなかった人に、イエス様はシロアムの池で洗うように命じました。主の言葉に従った結果、見えるようになりました。彼にとって、キリスト体験とも言うべき事態です。彼はどうして目が見えるようになったのか、さっぱり分かりません。理屈は説明できなくても、確かな結果を握っている彼はどんなに言われても動きません。私たちもこれ程の確信となるキリスト体験をしようではありませんか。(KE)

振り返るとすべて主の語られたとおりになったのです

12月19日

「これであなたがたは、主がアハブの家について告げられた主の言葉は一つも地に落ちないことを知りなさい。」列王紀下10:10a

 アハブ王は王妃イゼベルにそそのかされて偶像の神々を拝むようになり、彼の治世はまことの神様から離れたものとなりました。その結果、神様は預言者エリヤを通して警告や勧告を与えましたが、彼らは無視しました。しかし、神様の言葉は長年のうちに次々と具体化され、振り返るとすべて主の語られたとおりになったのです。聖書の言葉も同様に決して言葉だけに終わらず、必ず結果が伴います。(KE)

私たちは実際の羊たちのように牧者なる神様に信頼しているでしょうか

12月18日

「主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。」詩篇95:7

 神様と私たちの関係は羊飼いと羊にしばしば譬えられます。しかし、私たちは実際の羊たちのように牧者なる神様に信頼しているでしょうか。考えると、羊飼いにとってこれほど扱いにくく、手ごわい羊はいないでしょう。それでも神様は忍耐し、寛容で、愛し続けているのです。今日も主は牧者となり、あなたに先立って進まれます。素直に御声を聞き、従順に従いましょう。(KE)

いただくものを自分のために使い尽くしてはならない、と言うことです

12月17日

「あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。」レビ19:9

 画家ミレーの名画「落穂拾い」を思い出させる言葉ですが、旧約時代の律法の一つです。現代風に言うならば、いただく収入のすべてを残さず自分のために使い尽くしてはならない、と言うことです。収入の幾分かを弱い人、貧しい人などのために取り分けることを神様は願っているのです。それはまた私たちが神様に養われていることを証しする行為でもあります。(KE)

人は神様に頼って生きるように造られたものだからです

12月16日

「あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」ローマ6:16b

 人は何かに縋らなければ生きることができません。なぜなら、人は神様に頼って生きるように造られたものだからです。人それ自身は単なる器にすぎません。しかし、罪の力に握られると、人を傷つける凶器になります。神様の手に握られるとき、有益な器となり、世の光、地の塩となるのです。今日、あなたは誰の僕ですか。(KE)