神様の御旨によるものと信じ、感謝して喜び行うとき、信仰に応えて恵み豊かな道に導いて下さいます

7月17日

「あなたのみむねを行うことを教えてください。あなたはわが神です。恵みふかい、みたまをもって、わたしを平らかな道に導いてください。」詩篇143:10

 人が創造者なる神様の御旨を知り、それを行うのは人としての本分です。日々の生活でなす業を自分の思いのままでなく、神様の御旨によるものと信じ、感謝して喜び行うとき、神様はその信仰に応えて恵み豊かな道に導いて下さいます。大切なのは神様に心と思いを向けて、みことばのように祈り求めることです。神様は必ずその祈りに応答して、結果を出して下さいます。(KE)

人生設計が予期しない道へ進むと、失敗者のように思われますが、それは間違いです。

7月16日

「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。」エレミヤ10:23

 人生設計を自分で計画し、それを完成しようと願いつつも、思いがけない事態や状況に妨げられ、予期しない道へ進んでしまいます。そうなると、なんだか自分が落伍者、失敗者のように思われますが、しかし、それは間違いです。人が生まれることすら自分の目論見によるのではありあせん。ましてや、それからの人生のすべては神様のご計画による導きによって今があるのです。(KE)

私たちは父なる神様の意思に従い、その手のなさるわざにまかせることが全てです

7月15日

「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」イザヤ64:8

 神様と私たちとの関係をきちっと整えておくことは重要なことです。神様は「父」であり、「陶器師」です。一方、私たちは被造物なる「み手のわざ」です。私たちは父の意思に従い、その手のなさるわざにまかせることが全てです。私たちを神様の作品とし、それを通してご自分の技量を誇示するのです。私たちには誇るところが何もありません。ただ、父なる神様の栄光があるのみです。(KE)

そもそも私たちを養っているのは神様です

7月14日

「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」マタイ6:26

 人は自分の力や知恵によって生きていると思っています。その結果、自分の力の及ばない事態になると不安や心配になります。自分でなんとかしようと思うからです。しかし、そもそも私たちを養っているのは神様です。「空の鳥を見よ」とは神様に目を向けよとのこと。あなたは鳥よりもすぐれているはずです。(KE)

人は身勝手に“よい”“悪い”を決めて、それに縛られてしまいます

7月13日

「すると、声が二度目にかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。」使徒10:15

 創世の時、神様は万物をみ心のままに造られました。その結果を見て、「よし」とされたのです。しかし、人は身勝手に“よい”“悪い”を決めて、それに縛られてしまいます。使徒ペテロもそのような律法に囚われていましたが、不思議な幻を通して、どんなものも神様がきよめておられることを悟りました。これによって福音が当時の異邦人社会に伝えられることになったのです。あなたも自分の思いに捕われていませんか。(KE)

“主の言葉”を軽んじることは、神様ご自身を軽んじることです

7月12日

「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。」サムエル下12:9a

 ダビデ王はバテシバにしたことを神の人ナタンに指摘されました。神様が問題にされたのはその行為ではなく、背後にあるダビデの心を咎めたのです。“主の言葉”を軽んじることは、神様ご自身を軽んじることです。確かに彼女の夫ウリヤにしたことも罪ですが、それを生み出したのは神様に対するダビデの高慢な心でした。人は現れた行為を問題にしますが、神様の求められることはあなたが主をどこに置いているかです。(KE)

神様の定められた手続きに従うとき、具体的な結果を得ます

7月11日

「すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。」民数21:9b

 エジプトから救い出された神の民は荒野の旅路に堪えがたくなり、神様とモーセにつぶやきました。神様は火のへびを送って彼らを懲らしめたのです。民は悔い改めてモーセに取り成しを願い、その結果、神様は青銅でへびを造り、竿にかけるよう命じました。仰ぎ見たものは死を免れました。ばかげたことに思われようと、神様の定められた手続きに従うとき、具体的な結果を得ます。主の十字架もまた同様です。仰ぎ見る者は生きるのです。(KE)

畏敬という言葉によって表された思考や感情、情緒が失われたように思われます

7月10日

「愚かで、悟りもなく、目があっても見えず、耳があっても聞こえない民よ、これを聞け。主は言われる、あなたがたはわたしを恐れないのか、わたしの前におののかないのか。」エレミヤ5:21-22a

 “畏敬”あるいは“畏敬の念”という言葉は、近頃使われない言葉の一つではないでしょうか。言葉がなくなるにつれて、それによって表された思考や感情、情緒が失われます。神に対する人の感覚が鈍感になり、神様に抱く思いが変わったように思われます。今こそ絶対者であり、全能者なる神様への真剣な心を取り戻すときです。(KE)

王までなったダビデは神様に対して「あなたはわたしの主」と言っています

7月9日

「わたしは主に言う、『あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない』と。」詩篇16:2

 これもまたダビデの信仰告白です。彼は無名の羊飼いから、王にまでなった成功者ですが、彼は決して絢爛豪華な王宮に住むから幸いだと言ったのではありません。しかも王たるものは自分以外に主なるものはいないはずですが、彼は神様に対して「あなたはわたしの主」と言っています。富国強兵や福祉安寧に腐心するわけでもなく、ひたすら神様に仕えることを努めました。その結果、繁栄や平和がもたらされるのです。(KE)

誰も彼の側に立つ者なく、悲しみを慰めてくれる者もいないとき、唯一の拠り所は神様でした。

7月8日

「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」サムエル上 30:6c

 ダビデがまだサウル王から逃げていた時、アマレクびとによって町が襲われ自分の愛する家族を失いました。その結果、町の人々からダビデは恨みを買い、孤立無援・四面楚歌の状況に落ちたのです。これは彼にとって厳しい試練でした。誰も彼の側に立つ者なく、悲しみを慰めてくれる者もいないとき、唯一の拠り所は神様でした。人に頼るのではなく、境遇によるのでもなく、いつ、どこにあっても支えてくださる神様に信頼するほど幸いはありません。(KE)