神様の光が心を照らすことによって私たちを清めて下さるのです

5月8日

「主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。」詩篇34:5

 神様は光のような方であると言われています。光には陰とか曇りなどはありません。神様に心を向けるとき、神様の光が心を照らし、内なる汚れや曇り、陰になっているところなどを探られます。しかし、それによって私たちを清めて下さるのです。神様の光にいつも照らされているとき、誰に対しても恥じたり、後ろ指を指されるようなことはありません。主よ、今日もあなたの光をてらして、心を清めてくださいと求めましょう。(KE)

動機が「自発」でなければ神様の喜ばれるものとなりません

5月7日

「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」第二コリント9:7

 神様が私たちに求められるのは、どんなことにあっても「自発」のわざであることです。強いられたり、義理や人情に流されてすることを主は徹底して排除されます。それが当然なすべきことであっても、その動機が「自発」でなければ神様の喜ばれるものとなりません。しかも、自発の思いの中に主の愛への応答であることが不可欠です。主の喜ばれる道を歩んでください。(KE)

イエス様を信じるとき、あなたの所有者が神様に変わります

5月6日

「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」第一コリント6:20

 「買い取る」とは所有権が代価を払った者へ移転することです。私たちは本来神様の所有でした。ところが、持ち主の手から失われて、神様でない者に所有されていたのです。しかも、その持ち主は悪意に満ち、混乱と争い、我利我欲などによって私たちを悲惨な者に変えてしまいました。イエス様を信じるとき、あなたの所有者が神様に変わります。今日も神様はあなたをご自分の目的に用いられます。(KE)

私たちも劣らず熱い思いを主に捧げようではありませんか

5月5日

「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」イザヤ43:4

 神様の熱烈な愛の告白です。これほど大切に思ってくれる人がいるでしょうか。あなたのためならばどんなものでも惜しくないというのですから。それほどまでに思いを寄せて下さる方に、片思いで終わらせようというのでしょうか。否、私たちも劣らず熱い思いを主に捧げようではありませんか。神様との相思相愛こそ人の幸せの極みです。(KE)

信仰の戦いの中心は不信仰との戦いです

5月4日

「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。」第一テモテ6:12a

 信仰生活は生涯をかけて持続するもので、卒業や終了はありません。また、最後までまっとうしなければ結果を得られません。8割、9割続いたから、合格と言えないのです。長い年月の間には信仰の戦いが必ずあります。その中心は不信仰との戦いです。具体的には様々な形がありますが、現実の生活の中で信仰を持ち続ける努力を続けてください。神様からの報いである「永遠のいのち」を目指して、主にすがりつつ戦いに勝利しましょう。(KE)

私たちは命も人生もすべて自分のものはなく、全て神様のものなのです

5月3日

「まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。」詩篇49:7

 神様は私たちを造られた方です。ということは、私たちは本来神様に所有された者です。ところがサタンは神様から私たちを盗んで、命も人生もすべて自分のものだと思わせているのです。私たちは何一つ自分のものはなく、全て神様のものなのです。もし、神様から所有権を買い取ろうとするなら、その代価を払うことができません。私たちはそれほど高価なものだからです。(KE)

人の力は限りあるものであって、なし得ることも限られています

5月2日

「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』。」マルコ10:27

  人はあくまでも被造物であり、相対的な存在です。神様は創造者であり、絶対的な方です。それゆえ、人の力は限りあるものであって、なし得ることも限られています。否、「できない」というほうが正確でしょう。一方、神様はオールマイティ、全能者、できない事のない方です。だからこそ、人は神様に頼らなければ生きることができません。なんでもできる神様のみ手のなかにあることを信じましょう。(KE)

揺るがない信仰に立つように必要な試練を与えられるのです

5月1日

「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」詩篇26:2

 “あるようでないのが信仰”と冗談で言われますが、まさに信仰があるかないか、自分ですらもはっきりしません。どれほどの信仰があるか、それを知るために試みられます。学校で定期試験があるのも自分の学習度がどの程度であるかを計るのと同様です。神様は私たちが揺るがない信仰に立つようになることを願っています。そのために必要な試練を与えられるのです。大いに練り清められ、キリストに似るものとなりたいものです。(KE)

親鳥がその雛を羽でおおうように神様は私たちを守り、生かし、持ち運んでくださるのです。

4月30日

「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。」詩篇91:4

 神様は私たちの創造者です。この世にある限り、神様は私たちを守り、生かし、持ち運んでくださるのです。まるで親鳥がその雛を羽でおおうように。しかし、現実にはどこにもそれらしきものが見えません。そのために神様を疑うようになりますが、それは間違いです。神様は“まこと”であり、真実・誠実に造り主としての製造者責任を果たされます。そこに私たちの安心と望みがあるのです。(KE)

神様は暗い事態や状況に財宝や宝物を隠しておられます

4月29日

「あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう。」イザヤ45:3

 人生には願わない事態、嫌悪すべきことなどに遭遇することがしばしばあります。それは“暗い所”であり、“ひそかな所”です。そんなところに宝と言えるものは無いように見えます。しかし、神様はそのような事態や状況に財宝や宝物を隠しておられて、私たちに神様を感歎賛美させ、涙を喜びに、憂いを笑いに変えて下さるのです。(KE)