神様のわざ、み思いを知り尽くすことができません

4月25日

「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても多くて数えることはできない。」詩篇40:5

  神様のわざ、み思いを知り尽くすことができません。だからこそ神様です。私たちの知るところはほんのわずかです。知らない事の方がはるかに多いのです。だから、知らない、分からないことを悩むことはいりません。むしろ、神様のわざに信頼して、み手に持ち運ばれていることを感謝し、喜ぶべきです。今日はどんな一日でしょうか。(KE)

順境の時も、逆境のときも神様がみこころをなそうとする道具立てにすぎません

4月24日

「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。」ヨブ36:15

 人は苦しみや悲しみに遭うと、人生の貴重な時間を無駄に過ごしてしまうかのように思います。しかし、私たちの人生は神様によって造られているものですから、無駄なもの、無意味なものなど決してありません。そのような仕分けをするのは人の身勝手です。人生には順境の時も、逆境のときもあります。そのどちらも神様がみこころをなそうとする道具立てにすぎません。どんなことにも、神様の思いを悟ってください。(KE)

足るを知ること、すべてのことを感謝することができれば全てです

4月23日

「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」箴言30:8

 人の大きな罪は「貪欲」です。必要以上に求め、蓄えようとするために、「うそ、偽り」どころか、強盗殺人など、さまざまな犯罪が横行することになります。足るを知ること、すべてのことを感謝することができれば全てです。神様に養っていただくなら、空の鳥のごとく、野の花のように生活のことは心配いりません。自分で養おうとするから、思い煩いや不安・恐れが伴うのです。(KE)

主にたより、頼みとするとは、命の源なる神様につながることです

4月22日

「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。」エレミヤ17:7

 私たちの生きるいのちは自分の中から湧きません。車にガソリンが給油されて力をえるように、私たち人間の“ガソリン”は神様から注がれるのです。主にたより、頼みとするとは、命の源なる神様につながることです。神様以外のものにつながると命が途絶えてしまいます。主につながるならば、そこから命の水が豊かに注がれ、日照りの時も、猛暑の中もしおれることなく、枯れることもありません。あなたは何を拠り所としているでしょうか。(KE)

「神の愛」と「キリストの忍耐」に倣って、愛に満たされ、忍耐強い者にしていただきましょう

4月21日

「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。」第二テサロニケ3:5

 私たちは欠けたところの多い者ですが、ことに不足しているのは「愛」と「忍耐」です。といって、こればかりは神様に求める以外に、自分の努力や力でどうにかなるものではありません。しかし、幸いに「神の愛」と「キリストの忍耐」という模範がありますから、なんとしてもそれに倣って、愛に満たされ、忍耐強い者にしていただきましょう。そのために祈りましょう。(KE)

『名が天にしるされ』ていることを喜ぼうではありませんか

4月20日

「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。」ルカ10:20

 弟子たちが村々町々に福音を伝えに出かけ、大喜びで帰ってきました。神様のみわざを体験したのです。しかし、イエス様が弟子たちに言われた喜ぶべきことは、驚くようなみわざをしたことではなく、天に属するものとして、神様が祈りに答えてくださったことです。私たちも十字架のあがないによって『名が天にしるされ』ていることを喜ぼうではありませんか。(KE)

無意味に形だけの安息日をかたくなに守っているからです

4月19日

「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。」マルコ3:5

 イエス様は手が不自由な人を癒してあげましたが、それが安息日でした。イエス様は珍しく怒りを表しておられます。それは無意味に形だけの安息日をかたくなに守っているからです。律法は神様のみ思いを語ったものであって、人に安息を与えるものです。障害に苦しむ人がイエス様によって安息と喜びが与えられるのですから、これこそ安息日です。(KE)

神様の本質は“愛”です

4月18日

「わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。」エゼキエル33:11bcd

  神様について多くの誤解があるようですが、その一つは、神様が冷酷無慈悲な暴君であるかのように恐れることです。確かに、神様は義なる方、聖なる方ですから、不義や罪を決して赦すことができません。しかし、神様の本質は“愛”です。なんとか滅びないでほしいと願っておられます。悔い改めて主の道に立ちかえることを期待しておられます。(KE)

どんなに賢い人であっても、神様の賢さをこえる人はいません

4月17日

「しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。」エゼキエル28:2b

 神様と人の違いをはっきりさせることが大切です。ともすると、人は自分が神様のように思ってしまうからです。どんなに賢い人であっても、神様の賢さをこえる人はいません。人は被造物、造られたものでしかないのです。一方、神様は万物の創造者であって、その大きさは測り知ることができません。この違いを徹底して認めるとき、人ははじめて謙遜になるのです。常にこのことを覚えておきたいものです。(KE)

自分の力では何もできません 神様の憐みを求める道があるのです

4月16日

「ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。」エレミヤ13:23bc

 まことに絶望的ですが、もう道はないのかと問われれば、さにあらず、神様にはできない事がありません。確かに、自分の力では何もできません。それを徹底して認め、神様の憐みを求める道があるのです。主の十字架にあわせられて一つとなる(自分に死にきってしまう)とき、新創造が始まります。私たちの性状性格など根こそぎひっくり返してまったく新しいものとなります。(KE)