神様は眼光鋭く、心の隅々を知りつくされます

6月27日

「主は言われた、『この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである』。」イザヤ29:13

 二枚舌だとか、裏と表などといって、人は表面を繕って本音を隠し、事を計ろうとします。このやり方が神様にも通用すると思っているなら、とんでもない事です。神様は眼光鋭く、心の隅々を知りつくされます。真実とは表裏一体本心で勝負することです。神様に対する姿勢をしっかりと整えましょう。(KE)

「天にある」とは神様のものとして生きることを表しています

6月26日

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」ピリピ3:20

  人が本来帰属する場所を表すのが国籍です。「天にある」とはイエス様を信じる者がこの世のものとして生きるのではなく、神様のものとして生きることを表しています。もはやこの世の民ではなく、神様の民であって、この世に派遣されているのです。やがて、イエス様は私たちを御国にある故郷へ帰るようにと迎えに来て下さるのです。天のふるさとを望みつつ、今日も前進!(KE)

神様のわざはもっと日常的であり、身近なことです

6月25日

「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。」詩篇92:4

 “神様のわざ”と言うと、不思議な現象や超自然的事態であると思われがちです。しかし、神様のわざはもっと日常的であり、身近なことです。私たちが元気に目覚め、当然のように営む生活のすべても、神様のわざです。まず、私たちの存在自体が神様のわざによるのですから、そのほかのことはもちろんのことです。人は勝手に良かった、悪かったと言いますが、私たちを楽しませるための御業です。(KE)

そこにはしっかりとした神様のみ思いが貫徹されています

6月24日

「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる。」詩篇135:6

 神様のみこころ、み思いはあまりに深く、その真意を知りつくすことができません。人の目に“どうして?”と見える事態や事柄でも、そこにはしっかりとした神様のみ思いが貫徹されています。神様は全宇宙、天にも地にもすべての事をみこころのままに導き、無駄がありません。今、あなたは最悪と思える状況にあっても、そこに御心にかなうことが行われていると信じるとき、その信仰に必ず応答してくださいます。(KE)

正しい価値観や倫理など、学校教育と違う訓練が必要です

6月23日

「むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。」箴言13:24

 幼児・児童虐待を勧めているように聞こえる昨今ですが、本当に子を愛するなら、自立して身を処する生活力を習得させるのは当然のことでしょう。それには幼いときからの家庭教育、正しい価値観や倫理など、教科教育(学校教育)と違う訓練が必要です。感情や情動によらず、神の愛に根差した親子の愛が家庭の土台になければ、虐待(溺愛をふくめて)の温床となります。(KE)

どんな人の心でも、神様によれば一瞬に変えられてしまいま す

6月22日
「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ。主はみこころのままにこれを導かれる。」箴言21:1  
人の心ほど扱いにくく、厄介なものはありません。ましてや「王の心」となれば、暴君・専制君主ですから、誰も逆らうことも、翻意を促すこともできません。しかし、そのようなどうにも手がつかない心すら、神様の手に握られると、自由自在に操られるのです。ですから、どんな人の心でも(自分の心すら)、神様によれば一瞬に変えられてしまいます。神様に全能の力を発動していただくカギはただ一つ、あなたの祈りです。(KE)

神様は祈りを聞かなければならない責任も義務もありません

6月21日

「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。」ヨハネ16:23c

 私たちはしばしば祈りますが、聞いてくださる方は「父」と呼ばれる神様です。父は子の求めになんとか答えようとします。神様も同じく子なるイエス様の取り成しを聞かずにおられません。私たちは十字架によって罪をあがなわれた者ですが、神様は祈りを聞かなければならない責任も義務もありません。ただ、御子イエス様の取り成しのゆえに聞き給うのです。それゆえ、御名によって祈るのです。(KE)

聖霊は私たちの祈りを御旨にかなうようにとりなしてくださるのです

6月20日

「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」ローマ8:26

 わたしたちはどんな祈りが神様に受け入れられるか知ることができません。自分勝手で、わがままな祈りばかりですが、神様からの霊(聖霊、御霊)は私たちの祈りを御旨にかなうようにとりなしてくださるのです。御霊の助けを信じて、祈り続けましょう。(KE)

誰の神でもない、まさに“あなた”の神様です

6月19日

「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」ヨエル2:13bc

 聖書に語られている神様は、誰の神でもない、まさに“あなた”の神様です。ですから、当然神様に帰るべきですが、どうしても素直になって悔い改め、神様に帰ることができずに惨めな人生になっています。しかし、神様は愛に満ちた方、否、愛そのものです。私たちが受けるべき呪いと刑罰すら、御子に負わせなさった方です。明日と言わず、今日、主に帰りましょう。(KE)

私たちも神様の存在が目障りな時、目を閉じているのではないでしょうか

6月18日

「主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。」エレミヤ23:24

 “頭隠して尻隠さず”と言う言葉がありますが、まさに神様に対する私たちはそのようなものです。隠したつもりでも、すべて見られているのです。子供は怖いとき目を閉じます。見えないと、怖いもの自体が無いと思い込むためです。私たちも神様の存在が目障りな時、目を閉じているのではないでしょうか。(KE)