彼が高慢になったとき、神様の霊は彼をはなれました

4月14日

「彼は主が自分を去られたことを知らなかった。」士師16:20b

 サムソンはその大力のゆえに名を知られた人物ですが、そもそも彼自身が力持ちだったのではありません。神様の霊が彼に宿ったので力を得たのです。彼はそのことを忘れて、愛人デリラに力の秘密を打ち明けました。彼が高慢になったとき、神様の霊は彼をはなれました。今は特定の人だけでなく、全ての人に霊が注がれています。へりくだって主を求めるとき、霊がそそがれ、力となります。ただ高慢になり、霊を軽んじると、すぐに消えてしまいます。(KE)

つかわしたのは神様ですから、全責任を負ってくださいます

4月13日

「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。」ヨハネ17:18

 イエス様の祈りの一節ですが、今の私たちにどのような役割が与えられているかを表しています。この世にありますが、この世のものとしてではなく、イエス様の救いによって、“つかわされた”者となったのです。もはやこの世に属するのではなく、神様のものとされています。つかわしたのは神様ですから、全責任を負ってくださいます。自分であれこれ悩むことなく、大胆に派遣した方に求めればいいのです。(KE)

イエス様はあなたに望みと光を与え、生きるものとしてくださるのです

4月12日

「イエスは女に言われた、『女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』。」ヨハネ20:15a

 今日は主のよみがえりを記念するイースターです。イエス様は十字架に死んだ後、墓に葬られました。そこは絶望と闇のなかです。しかし、主はそれで終わりになったのではありません。今日も失望し、生きる力を失った者たちに「なぜ泣いているのか」と近づいてこられます。イエス様はあなたに望みと光を与え、生きるものとしてくださるのです。イエス様を信じるとき、あなたも新しい命に生きることができます。(KE)

主がよみがえられたことによって、新しい命が注がれました

4月11日

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」第一コリント15:14

 神の御子であるイエス様が世に降られたのは私たちの罪をあがなう犠牲となるためでした。しかし、ただに死んで終わりならば、罪から解放された者たちは正しく生きる命を得ることができません。主がよみがえられたことによって、新しい命が注がれ、「あがない」のわざが完成します。もし、よみがえらなかったとしたら、私たちの信仰はまことにむなしいことになります。(KE)

いろんなことを通して、私たちの願いや思いと違った道を歩ませるのです

4月10日

「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く。」イザヤ30:21

 神様は私たちと共に居て、助け守ってくださる方ですが、同時に、神様のみこころを行わせようとなさいます。そのために、いろんなことを通して、私たちの願いや思いと違った道を歩ませるのです。時には苦しいと思うことや悲しいことにも導かれますが、どんなときにも共に居て、道を教え、最終目的地まで運んでくださいます。神様の言葉を聞くとき、先が見えなくとも、信じて従いましょう。(KE)

今、抱えている問題がどんなであれ、神様の御手によってなされていることを信じましょう

4月9日

「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7

  最後の晩餐の席で、イエス様は立ち上がって、弟子たちの足を洗われました。弟子たちはなぜなのかわかりません。神様の業を初めから知り尽くすことができないからです。同様に、私たちもしばしば不安と恐れに悩みます。しかし、後になってこの事だったかと気づくとき、神様の深い思慮、行き届いた配慮を知って驚きます。今、抱えている問題がどんなであれ、神様の御手によってなされていることを信じましょう。結論はもっとあとです。(KE)

神様の愛を受けて応答するとき、「愛し愛される」関係が出来るのです

4月8日

「わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」箴言8:17

 神様はまずひとり子を賜ったほどに私たちを愛してくださいましたが、しかし、「愛」は一方的な思いだけでは成り立ちません。神様の愛を受けて応答するとき、「愛し愛される」関係が出来るのです。また、求めなければ神様に出会うことができません。どんなことにも共通することですが、求めない限り、そこにあっても気がつかないし、無きに等しいのです。神様を愛し、求めてください。(KE)

人の知識や学識で探求しても知ることができないのが神様であります

4月7日

「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」ローマ1:20

 神様は人の目に見えず、声も聞こえず、姿形も定かでないゆえ、多くの人々が疑います。しかし、被造物である人間が神様を知り得るとするなら、それは神様ではありません。人の知識や学識で探求しても知ることができないのが神様であって、人はただ「信じる」しかないのです。理屈抜きに信じてみると、手ごたえを感じます。(KE)

命に至り、実を結ぶ道だからです

4月6日

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」ヨハネ12:24

 イエス様は神の位を捨て、人の世にくだり、十字架に死なれました。しかし、そのゆえにどんなに多くの人々が救われたことでしょうか。私たちもまたそのように生きることを、求められています。なぜなら、それが命に至り、実を結ぶ道だからです。自分に死ぬとは神様のみ手にまったくゆだねることです。そのとき、神様が生かして下さいます。(KE)

神様の取り扱いは“平等”ではなく一人ひとりです

4月5日

「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」ルカ12:48b

 世間では“平等”ということがいわれます。しかし、聖書をとおして教えられるのは、皆が同じようにという“平等”はなく、神様の取り扱いは一人ひとりです。右の人に求められることが左の人にも同じようにとはなりません。神様がそれぞれの個人に与えられた役割やタラントは同じではありませんから、比べあうこと自体無意味です。あなたにはあなたにだけ与えられたもの、求められるものがあります。(KE)