ある瞬間、突然のごとく動き始め、何事かと見ているうちに思いがけない結末に至ることがあります

6月16日

「かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。」出エジプト14:13b

 神様のなさる救いのわざは一気呵成に進みます。それまでは一向に動きません。私たちが問題に直面して、なんとか逃れようと七転八倒あがいてみても、微動だにしない事態や状況が、ある瞬間、突然のごとく動き始め、何事かと見ているうちに思いがけない結末に至ることがあります。まさにこれこそ神様の救いのみわざです。私たちのこれまでの人生はこのような神業(カミワザ)によって導かれてきたのではないでしょうか。(KE)

神様に期待し、待ち望むのはまさに忍耐そのものです。

6月15日

「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」ヘブル10:36

 人は待つことが苦手です。“打てば響く”敏速さが好まれますが、神様に期待し、待ち望むのはまさに忍耐そのものです。それは神様の時間と私たちの時間が違うからです。神様を待ち望むとは自分中心の時間軸から、神様の時間軸へ移ることです。そこは24時間、365日で区切られたものではなく、一日は千年のごとく、また千年は一日のように異次元の世界です。焦らず、いらだたず、じっくりと神様のわざを待ちましょう。(KE)

人生の様々な局面で人が絶妙なタイミングを知ることは困難です

6月14日

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」伝道3:11a

 物事にはそれぞれに最適な時期があります。早すぎず、遅すぎず、その時を探ることはなかなか困難です。農家の方は作物の植え付けから収穫まで時に応じて作業を進めます。漁業の方もまた漁の潮時を計ります。絶妙なタイミングに合うと最高の結果が得られます。しかし、人生の様々な局面で人がそれを知ることは困難です。なぜなら、全ての時は神様の手に握られているからです。私たちは神様のなさるわざに一切を委ねることがベストな選択です。(KE)

闇を取り除く道は光に照らされることです。

6月13日

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」ヨハネ1:5

 聖書では光とやみについて語られています。それを私たちに当てはめると、ひかりに輝いている心とやみが覆っている心となります。闇の世界は不安や心配、怒りや憤り、失望や絶望などに支配された心です。一方、光り輝く心は平安、希望、喜び、感謝などにあふれています。闇を取り除く道は光に照らされることです。イエス様はご自分のことを「まことの光」と言っています。あなたの心がイエス様に支配されるとき、闇はなくなります。(KE)

神様は私たちが自ら主に打ち明けることを待っておられます

6月12日

「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15

 神様は人の目に見えません。まるで存在しないかのようです。そのため、人は神様を侮り、自分の思いのままに事を進めようとします。神様はすべてお見通しですが、私たちが自ら主に打ち明けることを待っておられます。ご存じだから、言わなくてもわかるだろうというのは神様を軽んずることです。神様は今日もあなたに目をとめておられます。(KE)

自分は頼りがいのあるものだといえますか

「主 に寄り頼むは人にたよるよりも良い。主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。」詩篇118:8-9

 神様は鼻から息の出入りするものに頼るなと言われます。まさに人ほど頼りないものはありません。まずは自分を省みてください。自分は頼りがいのあるものだといえますか。ましてや他人ならばいよいよ頼りないものです。だから人に頼っても役に立ちません。権力者や実力者と言われる「もろもろの君」も、所詮人であり、栄枯盛衰を繰り返しているのです。永遠に変わらず不動のものは神様以外にありません。(KE)

分岐点は、絶対者なる神様を畏れる心が有るか無いかによります

6月10日

「このアハズ王はその悩みの時にあたって、ますます主に罪を犯した。」歴代下28:22

 人の真贋が明らかになるのは悩みにあったときです。悩みによって自分を省み、神様の前に歩みを正しくするのか、それとも自暴自棄に落ちて、“毒を食らわば皿まで”とばかりにますます荒んだ生活になるのか、どちらかになります。その分岐点は、絶対者なる神様を畏れる心が有るか無いかによります。アハズ王は神様をないがしろにして、神殿を破壊し、偶像に香をたくなどしました。その末路はあわれです。神様を畏れる者となってください。(KE)

この世を忘れて、主に仕えることを願っています

6月9日

「娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。」詩篇45:10

 イエス様の救いを受けた状態を花婿と花嫁に例えています。花婿はイエス様、花嫁は私たちです。かつては、花嫁は自分の実家や両親・兄弟を忘れて、花婿の家風に染まるようにと、白い衣装を纏いました。イエス様の花嫁である私たちは、何とかして花婿の性質・性情に似るように、この世を忘れて、主に仕えることを願っています。身辺多様な問題の連続ですが、神様のわざにすっかり委ねて参りましょう。必ず、結果が出ます。(KE)

さまざまな不安や心配は造り主なる神様を忘れた結果です

6月7日

「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」マタイ6:26

 人は万物の霊長などと自慢しますが、実際の生活ぶりはその言葉とは程遠いものです。常に、さまざまな不安や心配など、心をかき乱されて、ひと時も安心がありません。それは造り主なる神様を忘れた結果です。自分の力と知恵で生きていると思いあがるのは罪です。主はすべての必要を満たして下さいます。(KE)

それは神様がさせて下さって、必要を備えてくださったからです

6月7日

「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。」詩篇127:1

 家を建てるにも、町を守るにも、人の力と努力によるものだと思っています。しかし、人のわざに見えますが、実はその背後に神様の導きと許しがあります。どんなこともすべて、神様の支配のもとにあるのであって、人は何もなしえないのです。できるとしたら、それは神様がさせて下さって、知恵も知識も、財も時間も、必要を備えてくださったからです。(KE)