自分の弱さ、無力さを嘆くことはいりません

2月20日

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ピリピ4:13

 パウロは有能な人物でしたが、常に自分の無力さを認めていました。具体的に「弱さ」を持っていました。しかし、イエス様の救いによって、全能者である神様との和解を体験し、神様の絶大な力に助けられる幸いを味わったからです。確かに、私たちも自分が弱くても、それを十分に補い、溢れるばかりの力を使えるなら、どんなにか心強いことでしょう。自分の弱さ、無力さを嘆くことはいりません。神様の力が注がれるのですから。(KE)

十字架によって命を捨ててくださったのはあなたのためです

2月19日

「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」イザヤ53:3

 イエス様について語られた言葉です。主は神の御子でありながら、人の世に降り、決して罪を犯したのではありませんが、私たちの罪を負って、罪びととなってくださいました。しかも十字架によって命を捨ててくださったのです。それはあなたのためです。それなのに、彼を尊ばず、侮り、嫌い、捨てています。あなたはイエス様にどのように報いていますか。(KE)

人は概ね自己中心であり自分を客観的に評価することができません

2月18日

「自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。」箴言20:6

 人は概ね自己中心であり、自分を正しい尺度としていますから、自分を客観的に評価することができません。自分は真実であり、正しい者であり、間違いのない者だと自負します。その物差しで計るから、どんな人でも合格点に及びません。他の人も同じように自分流の計りや物差しを持っていますから、当てになりません。間違いのない尺度は神様の言葉を通して照らされる光です。常に、みことばによって、自分の心と思いを探っていただきましょう。(KE)

まさにこれが悔い改めです

2月17日

「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。」サムエル下12:13a

 ダビデは王位につき、全権を掌握したとき、心にすきができました。その結果、忠臣ウリヤを激戦の地で殺し、彼の妻を横取りしたのです。神の人ナタンはダビデ王に向かって、その罪を断罪しました。そのとき、悔い改めたダビデ王の言葉がこれです。ダビデ王は部下に悪い事をしたと言ったのではなく、神様に対して罪を犯したと告白しました。まさにこれが悔い改めです。誰かれに対してではなく、神様にまず罪を認めることが幸いな道です。(KE)

モーセに期待するところがあり神様の偉大なわざを始めるためです

2月16日

「神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』。」出エジプト3:5

 モーセはホレブの山で野火のごとく燃えている柴が燃え尽きないのを見て、不思議に思って近づいた時、神様の声を聴きました。「足からくつを脱ぎなさい」と。裸足になるのは奴隷になることでした。神様はモーセに絶対服従を求めたのです。モーセに期待するところがあり、神様の偉大なわざを始めるためです。私たちを用いて事をなそうとしておられる神様は、徹底的に従う者を求めています。(KE)

私たちも「うしろをふりかえる」と失敗します

2月15日

「彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない』。」創世記19:17

 ソドムの町が滅ぼされるとき、ロトの家族だけは神様の憐みを受け、救い出されましたが、その時、神の使いは「うしろをふりかえって」見てはならないと命じました。ところが、ロトの妻は逃げる途中でうしろを見たため、塩の柱になったとあります。私たちも「うしろをふりかえる」と失敗します。常に、顔を前に向けて、まっすぐに前進しましょう。過去にとらわれないで。(KE)

先が見えないとき問われるのは神様を信頼しているか、ということです

2月14日

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19

 神様のなさることを始めから終わりまで見通すことはできません。先が見えないことで不安や恐れを抱きますが、そこで問われるのは神様を信頼しているか、ということです。人の経験や知識を超えた驚くことをなさいます。しかも、「新しい事」です。それは私たちに恵みをもたらすわざです。今、困難な状況にあっても、それも神様の手にあることを信じて新しい業を大いに期待したいものです。(KE)

なにげなく、自分の思いのままにしたことも神様が許しておられることです

2月13日

「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。」マタイ10:29

 森羅万象、あらゆるものすべて、神様の支配のもとに置かれています。また、それらすべてに神様の意思、み思いが貫かれているのです。ありふれたスズメですら、神様のみ手に握られ、支配されています。ましてや、私たちの一挙手、一投足に至るまで、神様は知り尽くしておられ、御心を実行しています。なにげなく、自分の思いのままにしたことも、神様が許しておられることです。(KE)

自分がどんな者であるか、悟る者となりましょう

2月12日

「わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、みずから顧みて、さとしとする。」イザヤ5:21

 人はどこまでも自己中心ですから、自分を賢い者、聡い者と思いやすいのです。客観的に見ることができません。そのために、他者からの意見や忠告を聞き入れないのです。傍で見ている人には滑稽ですが、本人はしごく真面目にそう思っているのですから、始末に負えません。“汝自身を知れ”とは昔の哲学者の言葉ですが、まさに自分がどんな者であるか、悟る者となりましょう。でなければ、災いの元です。(KE)

今年も神様の憐みで「今に至るまで」生かされているのです

2月11日

「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12

 祭司サムエルはペリシテ人との戦いに勝利したとき、それを記念して石塚を建てました。その名は「エベネゼル」。神様の恵みによってここまで助けられてきたことを忘れないように記憶し、感謝を表したのです。今年も神様の憐みで「今に至るまで」生かされているのです。感謝です。(KE)