神様からたくさんの恵みをいただいていながら、どれだけ感謝していますか

1月27日

「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」ルカ17:15,16

 重い皮膚病に罹っていた十人の病人がイエス様の言葉に従ったところ、すっかり癒されました。そのうちの一人だけがイエス様に感謝したのです。ところで、私たちはどうでしょうか。毎日、神様からたくさんの恵みをいただいていながら、どれだけ感謝していますか。日曜日、礼拝に出て、神様に心から感謝する時、あなたの人生は全く変わります。(KE)

あなたの思いを知ってくださる方です

1月26日

「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」ヘブル2:18

 イエス様は神の子であって、神様と等しいお方です。私たちとは“雲泥の差”どころか、表現の仕様がないほどの違いがあります。だから、私たち下々のことは分からないと思いがちです。しかし、主は神の位を捨てて、人の世に降り、馬小屋に生まれて、人として生きてくださいました。私たちの心の奥に届くことができる方です。あなたの思いを知ってくださる方ですから、遠慮なく、打ち明けようではありませんか。(KE)

聖書とは違った言葉を聞くと、間違った信仰になります

1月25日

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」ローマ10:17

 子供の成長を見ていると、幼いころから教えられ、聞かされたことが身に付くのであって、放任していたら成長は止まります。信仰も同様です。キリストの言葉、聖書の言葉を聞いて、イエス様を知り、神様を知らなければ信仰は芽生えませんし、成長しません。また、聖書とは違った言葉を聞くと、間違った信仰になります。何を聞くか、何を読むか、魂の成長に大切なことですから、聖書の言葉をしっかり聞いて下さい。(KE)

栄光を主に帰して、溢れるばかりに感謝しようではありませんか

1月24日

「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17

 人は恵まれ、物事が順調になり、豊かになると高慢になりやすいものです。殊に、神様の前に高ぶるとき、必ず失敗します。バビロンのネブカデネザル王もそのために苦しみを味わいました。また、ヘロデ王はそのために命を失いました。神様の憐みと慈しみのゆえに、与えられた恵みですから、栄光を主に帰して、溢れるばかりに感謝しようではありませんか。豊かになった時こそ、危ういときです。(KE)

ダイヤモンドや金銀など、貴重なものは、最初は泥や石に混ざり合って何一つ値打ちあるものに見えません

1月23日

「見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。」イザヤ48:10

 ダイヤモンドや金銀など、貴重なものは、はじめからそのようなものとしてあったのではなく、最初は見栄えもなく、泥や石に混ざり合って何一つ値打ちあるものに見えません。しかし、それをさまざまな方法で純度を高め、雑物を削り取って繰り返し磨き、取り出すと高価な貴金属や宝石となります。取れる量はほんのわずかで、捨てるものがはるかに多いのです。神様は私たちをそのようなものに作り替えておられます。(KE)

イエス様が私たちと直接交わることを求めておられます

1月22日

「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」雅歌2:14

 「岩」はキリスト、「裂け目」は十字架で裂かれたキリストの体です。そこを隠れ場にしているのは私たちです。主は私たちを「はと」と呼んでくれます。しかも、あなたの顔をみせ、声をきかせよと。イエス様が私たちと直接交わることを求めておられます。ところが、主に見られまいと隠れ、覆いをかけるようなことをしています。素直に、主の呼びかけに答えましょう。(KE)

そのために必要なのは、「造り主」を認めることです

1月21日

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、」伝道12:1

 私たちは自分の力や努力、周囲の人々のお蔭で生きていると思っているので、思い通りにいかない、予期しないことに出会うと、うろたえ、思い煩い、憤ります。しかし、私たちは造られた者ですから、造り主が定めておられることしかできないのです。被造物であることに徹底したいものです。そのために必要なのは、「造り主」を認めることです。(KE)

イエス様に出会うことによって、それまでとは違う生き方、価値観、世界がかわります

1月20日

「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる』。」ヨハネ11:25

 人は死んで再び生きることはできません。だから、肉体的な死から、生き返る意味ではなく、「よみがえり」とは新しい人生を生きることです。イエス様に出会うことによって、それまでとは違う生き方、価値観、世界がかわります。まさに、「よみがえり」です。それはイエス様を心に信じて、生活の隅から隅まで、ことごとくのなかに、自分ではなくイエス様を置き、従う事がよみがえりです。(KE)

イエス様以外に助かる見込みはないと必死に懇願する信仰姿勢をイエス様は感歎されました

1月19日

「すると女は言った、『主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます』。」マタイ15:27

 カナンの女がイエス様に娘の病気を癒してくれと頼みましたが、すげなく断られました。ところが、この人は何を言われようと、ますますイエス様に求めたのです。イエス様以外に助かる見込みはないと必死に懇願し、犬と呼ばれてもそれを踏み越えていく信仰姿勢をイエス様は感歎されました。私たちもこの女の人に倣って、とことん身を低くして、あきらめずに主を求めようではありませんか。(KE)

人が生きるのは魂、霊魂が神様からの力に満たされることです

1月18日

「イエスは答えて言われた、『「人はパンだけでは生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と書いてある』。」マタイ4:4

 人が生きるとは肉体的な状況が不自由なく動きまわり、生活ができることだと思われています。いわば健康と命とが直結したものです。一方、イエス様は荒野でサタンの誘惑を受けた時、人が生きるのは魂、霊魂が神様からの力に満たされることだと体験したのです。霊魂は神様の性質に似たものだから、神様の言葉を通して命である力があたえられて精気に満ちたものとなります。(KE)