12月17日
「母は僕(しもべ)たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。」ヨハネ2:5
イエス様は僕たちに甕いっぱいに水を汲ませました。その中から桶一杯を料理人のところへ持って行かせたところ、良質のブドウ酒になっていました。水がブドウ酒になるという奇跡が行われたのですが、僕たちのイエス様に従う従順さと忠実さがあったからなされたことです。今も、僕たちのようにイエス様の言葉に忠実に従うなら、奇跡といわれる結果を得ることができます。(KE)
12月17日
「母は僕(しもべ)たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。」ヨハネ2:5
イエス様は僕たちに甕いっぱいに水を汲ませました。その中から桶一杯を料理人のところへ持って行かせたところ、良質のブドウ酒になっていました。水がブドウ酒になるという奇跡が行われたのですが、僕たちのイエス様に従う従順さと忠実さがあったからなされたことです。今も、僕たちのようにイエス様の言葉に忠実に従うなら、奇跡といわれる結果を得ることができます。(KE)
12月16日
「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから』。」ルカ13:8
ブドウ畑の隅に植えられたイチジクの木が実らないため、主人は切り倒そうとしますが、園丁はとりなして猶予を願いました。私たちこそ場所ふさぎで、役立たない存在です。神様はすぐにでも切り倒したいほどでしょう。しかし、ただ御子イエス様の命を賭したお取り成しのゆえに、今年も猶予されたのです。実を結ぶ秘訣はイエス様につながることです。今年こそ実を結びましょう。(KE)
12月15日
「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」マタイ25:21
これはタラントの譬えです。主人がしもべたちにそれぞれタラントを預けて出かけました。やがて帰宅した主人はしもべたちと清算したのです。主人の意図を知ってそれぞれ託されたものを用いて収穫したしもべ達は、主人から称賛されました。これは私たちのことです。主人である神様が清算されるときが来ます。しっかり、主人の意図に従って喜ばれたいものです。(KE)
12月14日
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」第二コリント5:7
「歩く」とは生活することです。日々、何をよりどころにして生きるかが人生のあり方を決めることになります。目で見るところ、理解できる範囲、多数の趨勢など、様々な条件に左右されながら生きていますが、ただそれだけであれば、実に小さなものでしかありません。もう一つ、目に見えないもの、神様を信じて無なる地平、未知なる空間へ踏み出す時、人生の風景は激変します。あなたも神様のみわざを体験する冒険へ踏み出しましょう。(KE)
12月13日
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」マタイ5:6
不義や不正がはびこり、悪が跋扈(ばっこ)する世にありますが、だからといって、義を求める者が空しくなることはありません。ソドムの町にいた義人ロトのように、世に染まらず、流されず、常に神様を恐れ、神の義を渇き求めようではありませんか。神様はそのような者たちを見捨てません。定められた時がくるなら、神様は必ず報いてくださいます。(KE)
12月12日
「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」創世記45:5
神様のご計画、みわざはいかに大きなものでしょうか。ヨセフは兄弟の反感を買い、売られてエジプトへ来ました。その後、さまざまな苦難を経てエジプトの宰相となり、飢饉のため苦しむ家族を救う先立ちとなったのです。ヨセフは神様のみ手を信じて、置かれたところ、与えられたことのなかで徹底して従いました。すべてのことを導かれるのは神様であると信じたからです。(KE)
12月11日
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」ヤコブ4:14
自分のことはなんでも自分で決定できるかのように錯覚しています。実際は何ひとつ確実なものはありません。創造者なる神様のみ手に支配されているからです。明日が、来年がどんな日になるのか、皆目分りませんが、神様は明確な目的と計画で私たちを導いておられます。主がなさるわざを信じてゆだねようではありませんか。(KE)
12月10日
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ガラテヤ3:26
イエス様の救とは私たちを「神の子」にして下さることです。私たちは肉親としての父親しか知りませんでしたが、天地万物の創造者であり、全能の神と言われる方が私たちの「父」となって下さることでもあります。神様を「お父さん」と呼ぶことが出来、この方に信頼して依り頼めばどんなことでも出来ないことはありません。「神の子」であることを信じ、「父なる神」を言葉どおりに信じようではありませんか。(KE)
12月9日
「しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。」 マルコ5:19
悪霊につかれた人がイエス様によって癒されました。彼はイエス様について行きたいと願いましたが、主は拒みました。主が彼に求めたのは、神様がどのように自分に働いてくださったか、何をしてくださったかを告白することです。神様が私たちをどのように用いておられるか、神様のみわざを語ろうではありませんか。(KE)
12月8日
「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」出エジプト13:21
神の民がエジプトを出て、荒野の旅路を進んでいるとき、神様は常に彼らと共に歩んでくださいました。「雲の柱」「火の柱」は神様の臨在をあかしするしるしです。私たちにはそのようなものはありませんが、その代わりにみことばが与えられています。みことばを常にこころにおいて、それに従うとき、私たちは神様と共に生きることができます。(KE)