7月30日
「わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。」 列王上3:13
神様はソロモン王に何を与えようかと尋ねました。王は「聞きわける心」と「善悪をわきまえること」を求めました。神様は彼の願いを聞きいれたばかりか、求めなかった富も名誉ももらいました。それは、王がまず神様を求めたからです。神様の知恵、悟り、力を求めて、御心に従うとき、その他のものまで惜しみなく与えてくださいます。(KE)
7月30日
「わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。」 列王上3:13
神様はソロモン王に何を与えようかと尋ねました。王は「聞きわける心」と「善悪をわきまえること」を求めました。神様は彼の願いを聞きいれたばかりか、求めなかった富も名誉ももらいました。それは、王がまず神様を求めたからです。神様の知恵、悟り、力を求めて、御心に従うとき、その他のものまで惜しみなく与えてくださいます。(KE)
7月29日
「ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。」創世記28:16
兄エサウと敵対することになったヤコブは、一人で家を出て叔父のラバンの家を目指して旅をしました。道中、荒野で野宿した時、神様は親しくヤコブに声をかけ、ご自身をあらわされた。失意と落胆、孤独の中にあるとき、そこにこそ神様は居られたのです。万策尽きて、失望し、何も望めないとき、まさに神様に出会う恵みのときです。今日、あなたがそのような状態にあるなら、神様はそばにおられます。(KE)
7月28日
「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。」マタイ13:40
麦をまいたはずなのに毒麦が混じっていたというイエス様の譬え話です。収穫のときに選別することになりました。これは世の終わりのときのことで、御使たちが刈り取り、毒麦は火で焼かれるのです。この世は麦と毒麦の混じった麦畑のようなところですが、やがて最後の審判のときがきます。そのとき、あなたは麦でしょうか、毒麦でしょうか。永遠の御国に入ることが出来るように、今日も良き麦となってください。(KE)
7月27日
「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。」ルカ16:8
ご主人から解雇されそうになった執事が、主人に借りのある人たちを呼び、負債が半分になるように証書を書き換えました。こうして恩義を売っておけば、イザというとき、助けが得られると思ったのです。彼は自分にとって今何が大切であるかを知っていました。だから、不正なやり方であっても、無くてはならないものを手に入れました。あなたは今日何のために力を尽くしますか。(KE)
7月26日
「使徒たちは主に『わたしたちの信仰を増してください』と言った。」ルカ17:5
信仰とは簡単に言えば「神様を信じる」ことですが、これが結構難しいのです。運転免許のような技能や学校での知識などは、自分が努力すれば人並みに身につきます。しかし、信仰は自分が信じようと願ってもそうはなりません。なぜなら、信仰は神様が与えてくださる恵みだからです。使徒たちのように、主に求めなければ得られません。だから、神様に信じさせてくださいと、謙遜に祈り求めてください。必ず、信じる力を与えられます。(KE)
7月25日
「両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。」マタイ18:8b
この言葉の前半には「片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」と言われています。まことに厳しい言葉ですが、永遠の滅びを思うなら、そのくらいは実に小さいことです。身を切るような苦しみに会って、物欲的な世界から離れ、永遠の命につながるならば、これほどの幸いはありません。だから、病気や事故などで不便な生活をしいられるとも、不足や欠乏を嘆かず、霊に生きる者となりましょう。(KE)
7月24日
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71
「苦しみに会う」ことは嫌なことであり、避けたいことです。しかし、苦しまないことの方が極めて珍しいのが現実です。となると、それを避けるより、果敢に立ち向かってはどうでしょう。きっと苦しみの中に思いがけない宝が隠されているかもしれません。殊に、神様に出会い、その大きな愛を知り、内なる人が清められるとするなら、苦しみにあったことは良いことだと言えるのではないでしょうか。(KE)
7月23日
「あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、あなたの大庭に住む人はさいわいである。われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みによって飽くことができる。」詩篇65:4
神様のそばに居れるのは大いなる特権です。相手から選ばれ、許されなければありえないからです。そればかりか、共に住ませていただくとはなんと有り難いことでしょうか。しかも、山海の珍味ならぬ主の恵みの饗宴を受けるとなれば、万難を排して招きに応えたいものです。主はあなたを大庭に住ませ、溢れるばかり恵まんと今日も招いておられます。(KE)
7月22日
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」ヘブル11:6
神様によろこばれるのは、高価なささげ物や犠牲献身などではありません。神様がおられて、私たちの全てを支配し、ことごとくに応答してくださると、単純に信じることです。ともすると、信じると言いつつ、まるで神様は居ないかのように思い煩ったり、失望したり、自分の思いに囚われているのではないでしょうか。(KE)
7月21日
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」詩篇126:5-6
まもなく収穫の秋を迎えます。たわわに実った稲を刈り取る喜びはどんなに大きなものでしょうか。しかし、その喜びの裏には涙の労苦があります。昨今の風潮は苦労せずに喜びの結果だけを得ようとしますが、その喜びは内容のない、軽薄なものです。たとえ苦しく、辛くとも、涙しつつ種まく者は、濃厚な喜びを味わい、次なる収穫へ労苦をいとわなくなります。(KE)