神様が求められる使命があるからです

7月30日

「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。」エステル4:14c

王妃エステルは同胞のユダヤ人が存亡の危機に瀕したとき、叔父のモルデカイから王に助命嘆願を求められました。しかし、王妃が王に会うには許しがなければ会えません。そうでなければ命を失う危険がありました。エステルは命を賭して決行します。人には人生に何度かこのような命がけの決断をしなければならないときがあります。神様が求められる使命があるからです。イエス様も同じ道を歩みました。(KE)

「一心に」「尋ね求める」ことです

7月29日

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」エレミヤ29:13-14a

私たちの信じる神様はどこにおられるのか、どのような方なのか、秘密のベールに覆われた方ではありません。ご自分を知ってほしいと切に願っておられます。唯一つ条件がありますが、それは「一心に」「尋ね求める」ことです。「目移りする」と言う言葉があるように、あれもこれもと、心が乱れるのを主は嫌われるのです。一心に主を求めましょう。(KE)

万物の主である全能の神様の前に立つとき、「沈黙」以外にありません

7月28日

「主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。」ゼパニヤ1:7

人の心には、不平、憤り、嘆きなどのつぶやきの声が沸騰する水の如く絶え間なく湧いてきます。しかし、万物の主である全能の神様の前に立つとき、「沈黙」以外にありません。神様のなさることは完全無欠です。ひとり子イエス様を犠牲とし罪をあがない、招かれた私たちを「聖別」して下さいました。これ以外に何の不足があるでしょうか。主のみ手に一切を委ねるほかありません。(KE)

自分を知るには自分の顔を見ることです。

7月27日

「水にうつせば顔と顔とが応じるように、人の心はその人をうつす。」 箴言27:19

「水にうつせば」とは詩的な表現ですが、言うならば鏡に映る自分のことです。その人の心がそこに表れていると言われます。しかし、残念なことに、自分の顔を常時見ているわけではありません。いつもは他人の顔ばかり見ています。自分の心は自分が知っているように思いますが、自分を知るには自分の顔を見ることです。意識して、時折、鏡に自分を映して見てください。今朝は憂い顔ですか、それとも平安な顔ですか。(KE)

主の目が常に注がれていることを知れば、恐れることはありません

7月26日

「主の使は彼女に言った、『あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい』。」創世記16:9

アブラハムの妻サライの奴隷ハガルが主人の子を身ごもったため高慢になり、女主人を見下げるようになりました。そのためハガルはいじめられて逃げ出します。荒野で神様の声を聞いたのです。過酷な女主人のもとに帰るなど、耐えられないことでしょう。しかし、ハガルは自分を見ておられる神様を知りました。主の目が常に注がれていることを知れば、恐れることはありません。あなたにも注がれています。(KE)

信仰に立ち生活の細部にわたって御言を実践するのです

7月25日

「しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」ヘブル4:2b

神様の言葉は聞くだけで終わる限り、それはただの言葉にすぎません。大切なのは信じて心に受け入れ従うとき、神様の力が具体化されます。信仰に立ち生活の細部にわたって御言を実践するのです。それをしなかったために、神の民は約束の地カナンに入ることができませんでした。神様の言葉を知りながら、見ること、聞くことによって左右され信仰に立てなかったからです。(KE)

光自体に影も曇りもありません。

7月24日

「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。」第一ヨハネ1:5

神様は「光」だと言われています。光自体に影も曇りもありません。しかし、私たちは光どころか、まるで暗やみに住む虫けらのようなものです。光と闇とは決して交わることができません。ところが、神様は私たちを光に住む者にしようと計画され、ひとり子を世に送ってくださったのです。十字架の救を信じて、光なる神様と共に生きてください。(KE)

今生きているのはただ主の恵みによると告白せざるをえないのです

7月23日

「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」第一コリント15:10a

これはパウロの言葉ですが、よみがえったイエス様に出会い、彼の人生が180度変りました。それまで堅く信じてきた世界が完全に崩壊して、イエス様に身を捧げて生きる人生がゼロから始まりました。それゆえに、彼は今生きているのはただ主の恵みによると告白せざるをえないのです。私たちも同じです。イエス様を信じ、主のものとなって生きる。今日も神の恵みによって生きてください。(KE)

与えられた悲しみを無駄にする手はありません。

7月22日

「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」第二コリント7:10

かつて「悲しみよ、さようなら」という映画があったことを覚えていますが、悲しみを喜ぶ人はだれもいません。避けられないとすれば、与えられた悲しみを無駄にする手はありません。悲しみの中で神様の御心に探り、神様のみ思いに添うとき、悔改めから救いへと導かれます。神様から離れて、悲しみを道連れにするとき、望みなき死へ落ち込んでしまいます。(KE)

今、あなたは何の僕でしょうか。

7月21日

「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」ローマ6:16

人は弱いもので、何かにすがらなければ生きていけません。それは人が神様にすがって生きるようにと造られたからです。問題は何にすがっているかによります。なにものにも従っていないと思っても、気づかないうちに、お金、仕事、友達など、神様以外のものを頼っています。今、あなたは何の僕でしょうか。(KE)