7月3日
「イエスは彼らに言われた、『あなたがたの信仰は、どこにあるのか』。」ルカ8:25a
ガリラヤ湖を舟で渡っていたとき、突然の風に翻弄され、死ぬかと思うほど恐れを感じ、弟子たちは大慌てで、眠っていたイエス様を起こしました。主は風と荒浪とを叱り、なぎになりました。これはその時の主の言葉です。イザというときに、役に立たない信仰だったら、むしろ無いほうがいいかもしれません。そうならないために、日々、信仰に立つ訓練をつとめようではありませんか。(KE)
7月3日
「イエスは彼らに言われた、『あなたがたの信仰は、どこにあるのか』。」ルカ8:25a
ガリラヤ湖を舟で渡っていたとき、突然の風に翻弄され、死ぬかと思うほど恐れを感じ、弟子たちは大慌てで、眠っていたイエス様を起こしました。主は風と荒浪とを叱り、なぎになりました。これはその時の主の言葉です。イザというときに、役に立たない信仰だったら、むしろ無いほうがいいかもしれません。そうならないために、日々、信仰に立つ訓練をつとめようではありませんか。(KE)
7月2日
「人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである。」マタイ12:12
イエス様の嫌われることの一つは、教条主義というか、形式主義になることです。安息日を守る律法に忠実なあまり、苦しむ人を助けようとしないパリサイ人を非難しました。規則や言い伝えを守ることは大切ですが、しかし、そのために身動き取れなくなるのは本末転倒です。聖書のことばも表面的な意味に縛られず、背後にある神様のみ思いを汲み取ってください。神様の語り掛けですから。(KE)
7月1日
「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」 箴言17:1
人生を生きるにあたって何を大切なものとするか、価値観の問題でもあります。戦後、物の豊かさ、生活の快適さを求めて労苦してきました。今や、想像しなかったほどの物質的繁栄を得ましたが、大切な心を失いました。国のあり様から、個人の生活に至るまで、不安、苛立ち、暴力、孤独などに取り囲まれ、虚脱感が蔓延して、生きる命を失ったのです。まず今日の一日から、命を取りもどす選択をしましょう。(KE)
6月30日
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」 創世記2:7
神様が人を創造されたとき、まず「土のちり」で造られましたが、それだけで生きることはできません。これは私たちの命がどこにあるかを示唆したものです。その後、「命の息」が吹き込まれて、人は生きるものとなるのです。人はただ物質的な存在ではなく、霊的な存在であります。今日も、神様から与えられる「命の息」、聖霊に満たされて生きようではありませんか。(KE)
6月29日
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」第一テモテ2:4
怒りっぽくて、気まぐれで、苛酷な怖い神様を想像しがちですが、決してそうではなく、神様は徹底して人を愛している方です。神様がどんなに深い愛を持っておられるかはイエス様の姿を通して知ることができます。勿論、神様ですから永遠の滅びに定める権威ある峻厳な方です。何事もいい加減になさる方ではありません。それゆえに、神様の愛が尊く、輝いているのです。神様のあなたに対する熱烈な愛を感じてください。(KE)
6月28日
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」第二コリント5:7
信仰によって歩くとは神様を信じて生きることです。一方、見えるものとは自分の置かれた境遇や与えられた能力などです。何か事を始めるとき、万事万端納得し、これで大丈夫と言える条件を満たして踏み出す。これが見えるものによる生き方です。しかし、信仰に立つとき、そのような条件や境遇は揃わなくても、神様の導きを信じ、力をいただき、全てが神様によって進められると信じるのです。あなたはどちらによって生きていますか。(KE)
6月27日
「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」ローマ11:33
神様の「知恵と知識」は人の到底及びがたいものです。その人知を越えたわざによって、私たちは生かされ、持ち運ばれ、様々な事のなかに置かれています。自分の人生であっても、自分の力、知恵によるものではありません。神様のご計画と目的のもとに今日の一日が備えられているのです。人の思い通り、願いどおりに事が運ばないのは至極当然のことです。謙遜になって、神様のみわざにゆだねましょう。(KE)
6月26日
「神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。」箴言30:5
現代は言葉が軽く、不真実な時代です。言葉による犯罪、詐欺、偽証、粉飾などが多発して、言葉はすっかり信用を失いました。しかし、時代がどのように変ろうとも、神様の言葉は永遠不変です。しかも、信じる者を裏切ることがありません。神様の言葉は真実だからこそ、神様ご自身が「寄り頼む」者の盾となってくださいます。しばしば、人の言葉に裏切られたと嘆きますが、そうなるのは当然です。信ずべきはただ神様の言葉だけです。(KE)
6月25日
「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても多くて数えることはできない。」詩篇40:5
毎日、同じようなことを繰り返しているので、取り立てて事もなく過ぎたと思われますが、昨日一日を振り返るだけでも神様の「くすしきみわざ」と「みおもい」に満ちていると言うほかありません。日常茶飯のことですら、神様のわざによらないものはありません。私たちは神様の許しがなければ何もできないのですから。(KE)
6月24日
「わたしは命のパンである。」ヨハネ6:48
カナンの地を目指して、荒野の旅をした神の民は日ごとに天から降って来る「マナ」によって養われました。この世はまさに荒野であり、私たちは約束の地であるカナンに向かって進んでいます。この旅路にある私たちを養う「マナ」はイエス様のみことばです。肉体のためには三度の食事を欠かしませんが、命に活力を与えるパンを食べようとしないのは片手落ちです。永遠の命にいたるパンを日々いただいて、カナンの地である御国に入ろうではありませんか。(KE)