イエス様はいつも私たちと共にいてくださる方です。

11月17日

「しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた。」マタイ14:27

ガリラヤ湖で逆風にあい、進めずにいた弟子達の舟に、夜明けごろイエス様が近づいてこられました。彼らは幽霊だと怖じ惑いましたが、主は声をかけて彼らを元気付けました。イエス様はいつも私たちと共にいてくださる方です。それはどんな境遇・状況にあっても、私たちを助けてくださるためなのです。一人で悩まず、主を信じて祈り求めてください。必ず、主は答えてくださいます。(KE)

神様をどのような方だと信じているのでしょうか。

11月16日

「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」イザヤ40:26a

神様を信じると言いながら、どのような方だと信じているのでしょうか。聖書が伝える神様は天地万物の創造者、全知・全能なる神、時間空間を越えて存在しておられる方です。と言われても、具体的なことは何ひとつ分りません。人の知識では到底知り尽くせない方ですが、神様はご自分を知って欲しいと願っています。そのため、いろんな事件や事態、事柄の中にその片鱗を現しておられます。心の目をひらいて、神様を発見してください。(KE)

ただ、それがいつであるか、だれも知りません。

「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」 詩篇90:12

この地上での生涯は永遠に続くものではありません。必ず、終わる時がきます。ただ、それがいつであるか、だれも知りません。そのため、いつまでも続くものと錯覚しています。始まりと終りを知って、今がどのような時であるかを自覚することが大切です。ある人の歌に、「今は人生の何章目だろうか」という言葉がありましたが、あなたはそれを知っていますか。(KE)

神様が私たちに願っていることは、輝いて日々を生きることです。

11月14日

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」第二コリント4:15

神様が私たちに願っていることは、私たちが喜び、感謝し、輝いて日々を生きることです。神様はそのような私たちを見たいと願っているのです。「神の栄光」とはまさにそのような小さなことであって、決して異常現象や人を驚かせるような事ではありません。神様のみこころはご自分の栄光をあらわすことであり、それはまた私たちを幸いにすることでもあります。(KE)

自分の力や知恵でどうにもならない事態や境遇を受け入れられずにいます。

11月13日

「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」ローマ5:1

神様と平和な関係ができるとき、人ははじめて安心、平安を得ることが出来ます。私達はあからさまに神様と敵対してはいませんが、気がつかないうちに神様に憤っているのです。自分の力や知恵でどうにもならない事態や境遇を受け入れられずにいます。「どうして」と憤慨する相手は神様であることを知るべきです。神様の前に被造物であることを認めて謙りましょう。(KE)

私たちの日々の生活はたえず選択と決断が迫られます。

「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」申命記30:19bc

私たちの日々の生活はたえず選択と決断が迫られます。選択するにあたって、何を基準に選ぶか、それによって結果が違ってきます。損得利害によるのか、義理人情によるのか、自分の好き嫌い、感情によるのか、それとも、命と祝福に至るようにと、神様のみこころに従うのか、自らの思いを吟味したいものです。命に至る道は狭く、行く人もわずかですが、そこにこそ幸があります。(KE)

みことばは育ち結果がでます。そのために必要なのは忍耐です。

11月11日

「良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」ルカ8:15

種まきのたとえです。種とはみことばのこと。種は地にまかれて、やがて実を結びます。水や日照り、肥料も必要ですが、何といっても種がまかれた土壌が問題です。こころが素直で、やわらかく、深く耕されたところであれば、みことばは育ち結果がでます。そのために必要なのは忍耐です。あなたの日々聞く聖言が実となるようにしっかり守り、忍耐しましょう。(KE)

神様が私たちに求めておられることは、実に小さなことです。

11月10日

「だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。」第一テサロニケ5:15

神様が私たちに求めておられることは、実に小さなことです。みことばのように、日々の生活のなかで、小さな悪に善をもって答えるだけです。ところが、現実ではこれが大変困難です。売り言葉に買い言葉、一言の悪口に非難の応酬へと拡大して収拾がつかなくなります。そうならないために、相手に善いことをしようと「心がける」、心の向きをかえることが大切です。(KE)

イエス様を主と信じること、これが「受け入れる」ことです。

11月9日

「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。」コロサイ2:6

イエス様を主と信じること、これが「受け入れる」ことです。「主」でありますから、イエス様の命令に従います。また、イエス様のしもべであります。そうなると、当然日々の生き方が変るはずです。自分の損得利害や情欲・感情に従えなくなります。そのように、生き方が変らなければ信じるとはいえません。イエス様にあって歩くことが私たちの救いであり、幸いを得る道です。(KE)

絶対不動の神様に徹底して従うことを努めるのです。

11月8日

「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8

人は自分より強い者には卑屈なまでに従順になり、弱い者には高慢不遜になりやすいものです。そのために、行動や存在が不安定になり、根ざすところの無い浮き草のようです。イエス様は本来人のあるべき姿です。絶対不動の神様に徹底して従うことを努めるのです。たとえそれが死の道であっても、神様のみこころに服従するとき、神様もまたそれに応答してくださいます。主に倣う者となってください。(KE)