3月1日
「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。」使徒24:16
人は天涯孤独で絶海の孤島に住んでいるのではありません。神様との関係、人との関係の中で生きています。そのかかわりから自分の行動や思考が左右され、自分が正しい道に歩んでいるのかどうかわからなくなります。そのなかで、目指すべき規範は「良心に責められることのない」生き方です。自らの行動や言葉によって「良心」に咎められる思い、呵責を感じるなら、悔改めて道を正すべきです。(KE)
3月1日
「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。」使徒24:16
人は天涯孤独で絶海の孤島に住んでいるのではありません。神様との関係、人との関係の中で生きています。そのかかわりから自分の行動や思考が左右され、自分が正しい道に歩んでいるのかどうかわからなくなります。そのなかで、目指すべき規範は「良心に責められることのない」生き方です。自らの行動や言葉によって「良心」に咎められる思い、呵責を感じるなら、悔改めて道を正すべきです。(KE)
2月28日
「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」第一ペテロ2:2
生まれたばかりの赤ちゃんは乳を飲み、眠り、排泄するだけですが、それによって成長していきます。また、飲むべきものは乳であって、スープやジュースではダメです。私たちの魂も「霊の乳」であるみことばによって成長します。みことばを薄めたり、他のものを混ぜたりしては害となっても益にはなりません。単純素朴にみことばだけを素直に信じ心に蓄えましょう。(KE)
2月27日
「わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」エゼキエル36:27
神様は私達が何かをすることを求めているのではありません。むしろ、神様がしようとされることがあるのです。そのために、霊を与えて、歩ませ、守らせ、行わせるのです。全く神様に握られ、操られ、振り回されることが求められています。そうなるには、今日も自由自在に主のみ手に振り回されましょう。(KE)
2月25日
「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38
世間では自分の思いのままに生きることが最高に幸せなことだと考えられています。しかし、実際問題として、それは不可能です。出来ないゆえに、悩み苦しみ、失望しているのではないでしょうか。また、果たして自己実現が幸せであるか大いに疑問です。イエス様の生涯は遣わされた者として神様に従い仕えるものでした。私達も主にならって、みこころを行う一日を送りましょう。(KE)
「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」イザヤ51:1b
忘れることはある意味で幸いなことです。苦しみや悲しみを忘れるから、今を生きることが出来るとも言えます。しかし、忘れてはならないこともあります。その一つは、自分がどのような状況から今に至ったのか、殊にイエス様の救いを受けた恵みです。永遠の滅びから永遠の命に生かされていることを常に新鮮な感動で受け止めるためです。感謝と喜びを日々新しくするために自らの出発点をはっきりしておきましょう。(KE)
2月23日
「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。」哀歌3:37-38
何事かに出会うと、よきにつけ、悪しきにつけ、原因探し、犯人探しをします。因果関係がつながると安心する傾向がありますが、それが正しいものかどうかを問いません。時にはそれがわからず、いつまでも悩みます。しかし、結局のところ、神様以外にことの始まりはないし、また、そうであるとしか言えません。義人ヨブの場合も、あなたの場合もそうです。(KE)
2月22日
「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」マタイ12:30
日本人は古来「和」をもって尊しとする気風があり、そのため白黒をはっきりさせないで、曖昧にしておこうとします。しかし、イエス様はそのような態度を拒否されます。実は、態度をはっきりさせないことで、消極的な加害者、反対者になっているのです。積極的に反対したり妨害しないから、許されるわけではありません。信仰においてもイエス様を信じるのかどうか、日々迫られています。(KE)
2月21日
「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。」テトス3:9
信仰は単純にして素朴なことです。それを複雑な知的遊戯にしてきたのが神学思想の歴史ではないでしょうか。神様を万巻の書で知ろうとするよりも、聖書の一言を素直に信じて、神様を体験することがどんなに幸いでしょうか。歴史や哲学、科学などの知識が不要とは言わないまでも、それらによって神様が解明されると言うなら、そんな神様は願い下げにして欲しいものです。(KE)
2月20日
「しかし、わたしは、あなたの承諾なしには何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている。」ピレモン14
人の行動には自発のものと、“他発”のものがあります。どんなによいことでも、他人から強制されたり、やむなくするのなら、 たとえそつなくできたとしても、その行動やわざには心がありません。神様が喜ばれるのは私たちの真実な心です。誰がなんと言おうと、どんな状況であっても、自らの良き思いを全うしたいものです。(KE)
2月19日
「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。」第一コリント1:8
「主イエス・キリストの日」とは終末のときです。その日がいつであるか分りませんが、神様はその日に間に合うように、私たちを新しく造りかえてくださいます。ですから、あせることも、不安になることもいりません。神様はみわざによって私たちを日々きよめ、ととのえ、御旨に適うものにしようとしています。主のなさるままにみ手に委ねましょう。(KE)