「さいわい」の条件は変化し、消失してしまいます。

7月13日

「万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。」詩篇84:12

「さいわい」の条件は人それぞれで違います。「お金があれば幸い」と言う人、「友達がいるから幸い」と言う人、「熱中できる仕事があるから幸いだ」と言う人などなど。また、そのような「さいわい」の条件は変化し、消失してしまいます。しかし、神様は永遠不変です。そればかりか、出来ないことのない方、全てのものの供給者です。この方により頼むならば、なにひとつ不足はありません。これこそ「さいわい」の極みです。(KE)

聖書に明かされている信仰にしっかり立つものとなりましょう

7月12日

「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」イザヤ40:3

「荒野」「さばく」とは文字通り不毛の地、楽しませ、喜ばせるものもない状況です。人生にもたびたびそのような境遇に出会いますが、そこで何をすべきでしょうか。「主の道」「大路」を備え、真っ直ぐにせよと言われます。神様に対する姿勢、信仰の内実を神様の求めておられる標準にあわせることです。自我流の信仰ではなく、聖書に明かされている信仰にしっかり立つものとなりましょう。(KE)

私たちが喜び、感謝し、驚きと讃美が絶えないように神様がなさいます

7月11日

「この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである。」イザヤ43:21

イエス様の救をいただくことは古い自分を捨てて、キリストを着る者となることです。これはまさに“新創造”です。なんのためでしょうか。それは「わが誉を述べさせる」ためです。神様はご自分の目的のために私たちを救い、清め、新しくしようとするのです。私たちが喜び、感謝し、驚きと讃美が絶えないように神様がなさいます。神様の巧みな手に委ねて、どのようなわざがなされるか期待しましょう。(KE)

疑わないで、支配しておられる主の命令に服従してみましょう

7月10日

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」コロサイ1:13

私たちがイエス様を知らなかったとき、やみの中を歩いていました。しかし、今は「やみ」の支配から、イエス様の支配へ移しかえられました。このことは客観的に証明できないので、なんだか言葉だけのように思われます。それを現実のものとするには救い出されたと信じ、また、御子の支配下に移された自分であることを認めなければなりません。疑わないで、支配しておられる主の命令に服従してみましょう。手ごたえを感じます。(KE)

持てるものを奉げるならば、神様はそれに必ず応えてくださいます

7月9日

「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」第二コリント9:6

多くの収穫を得るためには豊かに蒔かねば得られません。神様の祝福と恵みを受けるにも同様です。神様の限りないご愛に応答して、成し得る限りに持てるものを奉げるならば、神様はそれに必ず応えてくださいます。神様の報いを疑って、少ししか奉げなければいただく恵みも僅かになるのは当然です。問題は神様を信じて、大胆に一歩を踏み出すかどうかにかかっています。(KE)

自分が罪人であることを心から認める人を求めておられます

7月8日

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ルカ5:32

イエス様がこの世に来られたのは、罪人を救うためです。罪人とは刑法上の犯罪者ではなく、神様に対する罪を犯したものです。その意味で、人は全て罪人です。しかし、それを自覚し、救を求める人よりも、自分を「義人」とする人が多いのです。イエス様は自分が罪人であることを心から認める人を求めておられます。なぜなら、そのような人々のために、主はきてくださったのですから。(KE)

全てが神様の恵みによることを認めて、感謝する者となるならば

7月7日

「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」箴言17:1

『衣食足りて礼節を知る』と昔は言われたものです。豊かになれば、人はみな穏やかになり、平和になると思われましたが、今やあり余るほどのものに囲まれながら、争い、不平、無気力がはびこっています。全てのものの根源であり、供給者である神様を忘れた結果です。小さなことから、大きなことに至るまで、全てが神様の恵みによることを認めて、喜びに溢れて感謝する者となるならば、「かわいたパン」も山海の珍味となるでしょう。(KE)

それを教えてくださるのは神様だけです。

7月6日

「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」エレミヤ10:24

人は科学や芸術、政治や経済を誇り、知恵や知識を自慢しますが、もっと身近な人の道、正邪の区別などを知りません。それを教えてくださるのは神様だけです。神様の懲らしめは嫌なことですが、それによらなければ悟れないほど、人は愚かな者です。怒りを伴わない懲らしめは教育であり、怒りによる懲らしめは懲罰です。たとえ懲らしめによってでも、神様の知恵をいただきましょう。(KE)

「心砕けて、へりくだる者」と住んでくださるのです

7月5日

「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』。」イザヤ57:15

神様が住み賜う所が「高く、聖なる」ところであるのはしごく当然だと思いますが、それでは私たちが神様に近づくことは出来ません。しかし、幸いなことに神様はまた「心砕けて、へりくだる者」と住んでくださるのです。今日も、「心砕け、へりくだる者」となって、神様と共に生きてください。(KE)

誰のものであるかを常にあきらかにしておくべきです。

7月4日

「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」詩篇24:1

人は勝手に自分のものだと決めていますが、全ての創られたものは創造者である神様のものです。私たちの体も、健康も、家族も、仕事も、すべて主のもので、私たちに使用権が付与されているだけです。だから、所有者の意向に従って用いなければならないばかりか、誰のものであるかを常にあきらかにしておくべきです。それを忘れて、まるで自分の所有物であるかのように扱うことが、神様に対する罪の一つです。(KE)