主は「目をさましていなさい」と警告しています。

4月27日

「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」マタイ24:36

 

世の終りの時がいつであるか、弟子たちの問いに答えた言葉です。各地でテロや地震によって多数の死傷者がでます。聞くたびに自分でなくて良かったと思いがちです。終りのときは全ての人に平等です。それは必ず来ます。ただ、遅いか早いかその時はわかりません。いつ、どのような事が起っても大丈夫と言える様に備えてください。主は「目をさましていなさい」と警告しています。(KE)

神様のなさることだから、疑う余地はありません。

4月26日

「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17b

 

私たちの信じる神様はどのような方でしょうか。ひ弱で、力のない、人の手を借りなければ何も出来ないものだったら、信じる値打ちがありません。死人を生かし、何もないところから造り出すことの出来る方、全能の神だから信じる価値があるのです。イエス様の誕生も、ご復活も、神様のなさることだから、疑う余地はありません。私たちの思いのなかで「神様のなさることだから」と控えるところを置いておきましょう。(KE)

神なる方は人の手で造られたものなど必要ありません。

4月25日

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24

 

日本には各地に神社仏閣があります。そこは神仏の宿るところとして大切にされていますが、本来、神なる方は人の手で造られたものなど必要ありません。この言葉に続いて、「また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない」とあります。神様はご自身で完結充足した存在です。神様が私たちを求めてくださるのはただ憐れみによるのです。(KE)

イエス様こそが「世の光」です。みことばに従って光の中を歩いてください。

4月24日

「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』。」ヨハネ8:12

 

昔、ギリシャのある哲人は日中ランプを灯して、「暗い、暗い」と言いながら町中を歩き回ったとのこと。彼は日の光があっても人心は暗く世は闇だと語ったのでしょう。勿論、ランプではどうにもなりません。イエス様こそが「世の光」です。現代は彼の時代よりももっと漆黒の闇の中です。イエス様のみことばに従って光の中を歩いてください。(KE)

御霊はあなたが忘れていることも、知らないことも、どんなことでも教えてくださいます。

4月23日

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」ヨハネ14:26

 

イエス様は父なる神様の元に帰り、ご自分に代って聖霊を送ってくださいました。今や聖霊が私たちのうちに宿っています。それは私たちに神様のみこころを教え、み旨を行わせるためです。御霊はあなたが忘れていることも、知らないことも、どんなことでも教えてくださいます。心の耳を傾けてみ声を聞いてください。(KE)

人の知恵で神様を小さく限ることなく思いっきり信頼しようではありませんか。

4月22日

「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。」ルカ12:6

 

「すずめ」ほどありふれた鳥はいません。また誰一人見向きもしません。そのような鳥でさえ神様は忘れていないのです。まして、万物の霊長と言う私たちを忘れることがあるでしょうか。神様の知恵、力、知識は人の計り知ることのできない大きなものです。人が不可能と思うことでも神様には出来ます。人の知恵で神様を小さく限ることなく思いっきり信頼しようではありませんか。(KE)

不自由のない生活が出来ても、それが命ではありません。

4月21日

「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」ルカ12:15

 

最新の医療設備があり、最新の居住区間に住み、栄養管理された食事をして、物質的には全く不自由のない生活が出来ても、それが命ではありません。では、何が命なのでしょうか。創世記には「命の息」を吹きいれられて生きるものとなったとあります。まさに、神様の命を頂く以外に生きることが出来ないのです。(KE)

 

神様がいらっしゃることを知れば、これにまさる平安はありません。

4月20日

「また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。」イザヤ58:9a

 

幼い子供は親の存在を絶えず確かめようとします。ちょっとでも顔が見えないと不安になって泣き出します。その声を聞くと、親はすぐに答えます。神様もまるで子供の親のように、私たちの叫ぶ声を聞いて答えてくださいます。子供が安心するのは親の存在を確信するからです。どのような問題・悩みにあっても、神様がいらっしゃることを知れば、これにまさる平安はありません。(KE)

言葉の上での失敗は数多くあります。祈りつつ主に守っていただくほかありません。

4月19日

「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」詩篇141:3

 

「口は災いの元」とも世間で言われますが、言葉の上での失敗は数多くあります。感情に任せ、思いのままに語る言葉で人を傷つけ、怒りを引き起こします。その意味で言葉は力です。一方、寡黙で口数少ない人は奥ゆかしく見えますが、何を思っているのか分かりません。小さな口ひとつ自分ではいかんともしがたいもの。みことばのように祈りつつ主に守っていただくほかありません。(KE)

主にあって恐れは消え、不安や心配は祈りと望みに変わります。

4月18日

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」ピリピ4:4

現実の生活を見ると、不安や心配、恐れがあって「喜ぶ」ことができません。事情や境遇によって喜ぼうとする限り、喜べないのは確かです。しかし、ここでは「主にあって」と言われています。「主にあって」とはイエス様を通して物事を見るのです。神様が私たちに注いでくださった限りない愛の証であるイエス様の目線に立って見てください。恐れは消え、不安や心配は祈りと望みに変わります。(KE)