人間的な画策を止め、神様に立ち返って、神様だけを待ち望むことです

10月9日

「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。」イザヤ30:18a

神様は私たちを恵み、祝福したいと願っておられます。なぜなら、神様は本質的に愛だからです。ただ、私たちがその恵みをいただくに相応しい手続きを取らないからです。神様が求めておられることは唯一つ、人間的な画策を止め、神様に立ち返って、神様だけを待ち望むことです。問題や悩みに遭うとき、うろたえて右往左往しますが、解決は得られません。その様子を見ておられる神様は、私たちがお手上げになってへりくだるのを待って、恵んでくださいます。(KE)

神様は彼らの様子をご覧になって災いを思いかえしたのです

10月8日

「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」ヨナ3:10

ニネベの人々が神様を離れた悪い道のゆえに、神様の裁きを伝えるために預言者ヨナは遣わされました。ニネベの人々は彼の警告を聞き、王様をはじめ全ての人々が悔改めました。神様は彼らの様子をご覧になって災いを思いかえしたのです。神様は実に豊かな赦しとあわれみに富む方です。私たちも絶えず神様の憐みにすがって、赦しを味わいましょう。(KE)

神様があなたの人生の「主」であり、「神」であるというのです

10月7日

「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27

「主」とは中心、根源などの意味を含むことばです。いうならば、全ての始まり、中心は神様であるという宣言です。人は自分が人生の「主」だと思っていますが、そうではなく、神様があなたの人生の「主」であり、「神」であるというのです。しかも「できない事」がない方です。この神様があなたを生かし、持ち運び、人生を終わらせるのです。神様の大能のみ手の中で、限りない愛によって生かされている幸いを感謝しましょう。(KE)

必要なものを、必要なとき、必要なだけ満たしてくださるのも神様です

10月6日

「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」箴言30:8

これは人が生きるうえの必須条件ではないでしょうか。世間は「うそ、偽り」で塗り固められています。その中にあって、人の心を探り知り、公平に裁かれる神様を前に、うそ、偽りなく生きるのは至難の技です。しかし、神様の力にすがるとき、それをまっとうすることができます。また、必要なものを、必要なとき、必要なだけ満たしてくださるのも神様です。この二つを祈り求めましょう。(KE)

主の憐みにすがって求めるなら、主はそれに答えてくださいます

10月5日

「その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』。」                       マルコ9:24

息子の病気を癒していただきたいとイエス様のところに来ました。父親は「できますれば」と願いましたが、主は信じるならどんなことでもできると答えました。神様に求めるにあたって、出来なければ仕方がないというなら、それだけのことで終わります。しかし、たとえ不信仰であっても、主の憐みにすがって求めるなら、主はそれに答えてくださいます。問題はいかにへりくだり、どれほど切実に求めるかにかかっています。(KE)

能動的に生きるのかによって生きがいが違ってきます

10月4日

「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27d

人生を受身的に生きるのか、能動的に生きるのかによって生きがいが違ってきます。人生にはいろいろな事が次々と起ってきます。願わしいこともあれば、嫌なこともあります。しかし、なにがあっても、すべてのことについて、自分が生きているのはこの事のためである、あるいはこの時のためであると、積極的に受容し、そこに生かされている目的を置くならば、実に充実した日々を送ることができます。(KE)

羊飼いがいなければ羊は命をまっとう出来ません

10月3日

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」詩篇23:1-3

羊を飼育する様子を身近に見ることができませんが、神様と私たちは羊飼いとその養われる羊との関係にあります。羊飼いがいなければ羊は命をまっとう出来ません。また、正しく生きることも出来ないのです。今日も、神様の牧場にある羊となりきって、導かれるままに従いましょう。(KE)

人が何に望みを置くべきかを語っています

10月2日

「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。」哀歌3:21

人は望みがなければ生きることができません。それゆえ、どんなに困難や苦難があっても、なにかにすがって一縷の望みを持とうとします。“溺れる者は藁をも掴む”とはそのようなことではないでしょうか。しかし、「藁」ではどうにもなりません。ついには絶望です。この聖言は人が何に望みを置くべきかを語っています。「この事」とは神様の慈愛と憐みです。なにがあっても、とことん神様の愛を信じ続けることです。(KE)

「善」とは神様が喜ばれるものですが、地味です

10月1日

「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14

ところが「悪」は魅力的で、人はそれに惹かれやすいものです。しかし、長い目でみるなら、悪は必ず滅びです。一方、「善」とは神様が喜ばれるものですが、地味で、見栄えも悪く、魅力がありません。しかし、実は命と力と望みを与えてくれます。なぜなら、善を求める者と共に神様がいてくださるからです。善を求めて生きようではありませんか。(KE)

神様はただ一人、万物の創造者、全能なる神様です

9月30日

「人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません。」エレミヤ16:20

創世記には、神様が居られたから森羅万象が創造されたと語られています。人は神様によって造られたもの、被造物です。だから、神様を造るなどは言語道断です。ところが、人は神のようになるとの誘惑に負けて、罪を犯しました。それ以来、自分を神として自我に仕える者となった結果、様々な神々が祭られ、拝まれているのです。まことの神様はただ一人、万物の創造者、全能なる神様です。(KE)