神様に仕え、神の子として永遠の命に生きるためです。

3月14日

「彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」ルカ20:36

イエス様が人の死後、どのようになるか語ったことばです。人は必ず死を迎えます。そのとき、肉体は朽ち果て失われますが、それですべてが終わるのではなく、魂は神様のもとへ帰り、霊の体を与えられます。天使のごとく、神様に仕え、神の子として永遠の命に生きるためです。そこでは親子、夫婦などの肉にあった関係は解消され、父なる神様のもとにある新しい関係が築かれます。(KE)

小さな種の中に命が格納されています。

3月13日

「種まきは御言(みことば)をまくのである。」マルコ4:14

種まきのたとえ話の一節です。神様の言葉である御言は種のようなものです。種は何ひとつ特徴のない平凡なものです。こんなものから何がでるかしらと思われますが、ひとたび地に埋められ、時がたつと芽が出て成長し、種の姿から想像できない草花や大木、野菜などになります。小さな種の中に命が格納されています。同様に、みことばに命が宿っていて、心と言う農地に埋められると驚くべき結果をもたらします。みことばを受け入れ、信じて、命を受けましょう。(KE)

「静かに」事の次第を解きほぐすのです。

3月12日

「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」詩篇4:4

「怒り」自体は罪ではありませんが、怒りに任せて自分を忘れるとき、罪を犯します。そうならないために、独りになって、「静かに」事の次第を解きほぐすのです。自分を見ている目に気がつきます。また、自分の中のもう一つの声が聞こえるようになります。そのとき、怒りは消えて、何を怒っていたのか忘れています。だから、決して即応しないことです。待つことが大切です。でないと、後悔することになります。(KE)

今、御子のゆえに神様の怒りが猶予されているのです。

3月11日

「しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。」列王上11:12

ダビデ王の子、ソロモンは父のように神様を敬わず、主から離れてしまいました。しかし、神様はダビデのゆえに、ソロモンを哀れんでくださったのです。彼の世に災いは臨みませんでした。同様に、今、御子のゆえに神様の怒りが猶予されているのです。それはすべての人が悔改めて、神様に立ち返るときを残しておられるからです。ソロモンが態度を改め、神様に従っていたら、歴史は変っていたでしょう。(KE)

私たちは神様に感謝することがいかに乏しいことか。

3月10日

「イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。」ルカ17:16

イエス様によって病を癒された十人のうち、たった一人だけが主のもとに帰って来て、感謝しました。なんと人はご都合主義でしょうか。どんなに恵まれても、たとえ不治の病が癒されようと、十分の一の感謝で終わるとは!しかし、これは他人事ではない。私たちは神様に感謝することがいかに乏しいことか。差別の中にあったサマリヤ人は受けた恵みを身に余るものと深く感じたのです。(KE)

決断は私たちにも日々求められていることです。

3月9日

「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」ルカ5:4

イエス様がペテロに言われた言葉です。ペテロは代々漁師の家庭に育ち、漁の専門家です。イエス様は大工ヨセフの子で、漁については全くの素人です。しかし、イエス様はまた神の子です。イエス様の言葉にどのように答えるか、ペテロの信仰が試されます。自分の経験や知識を離れて、イエス様の言葉を信じ、「沖へこぎ出し、網をおろす」決断は私たちにも日々求められていることです。ペテロは思いがけない体験をしました。(KE)

神様の前に心を低くして栄光を主にお返ししましょう。

3月8日

「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17

世間でも“喉元過ぎれば熱さ忘れる”というように、人は忘れやすいものです。神様の恵みもたやすく忘れてしまいます。そればかりか、全てが自分の才覚と努力で獲得したかのように思い上がって、高慢不遜な鼻持ちならない人間に成り下がってしまいます。そうならないように、事あるごとに、神様の前に心を低くして栄光を主にお返ししましょう。主はそのような人をますます祝福してくださいます。(KE)

「しばらく待て」「聞こう」、これが私たちにも求められることです。

3月7日

「モーセは彼らに言った、『しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう』。」民数記9:8

民は指導者モーセの判断を聞こうと一つの問題を持ってきました。さてどう答えるべきか。モーセは即答を避け、神様のみこころを求めます。「しばらく待て」「聞こう」、これが私たちにも求められることです。ともすると、過去の経験、周囲の人々の意見、自分の感情や思いに振り回されて失敗します。焦って仕損じるより、主を待って結果を得るほうが幸いです。あなたはどちらを選びますか。(KE)

神様ご自身が救を備えておられるのです。

3月6日

「モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい』。」出エジプト14:13

神の民がエジプトから解放され約束の地を目指して行く途中、前方に紅海があり後ろからエジプトの軍隊が攻めてきました。まさに絶体絶命の窮地にあるとき、モーセを通して神様は民に語られたのです。人の力や知恵によるのではなく、神様ご自身が救を備えておられるのです。今、あなたがどのような絶望的状況にあるとも、神様だからこそなしえる救があります。信じてください。(KE)

イエス様に救われた私たちは前に向かって進むのみです。

3月5日

「彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない』。」創世記19:17a

ソドムの町が滅ぼされるとき、神様はロトの家族を憐み、救ってくださいました。神の使いは彼らを町から連れ出して、「うしろをふりかえるな」と命じました。イエス様に救われた私たちは前に向かって進むのみです。過去の様々な事態や状況がどんなであれ、善悪にかかわらず、振り返ってはダメです。命を失います。振り返ったロトの妻は「塩の柱」になったといわれています。(KE)