私たちの求めるものは、平穏で安心して過ごす日ではないでしょうか。

9月26日

「片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる。」伝道4:6

人は何を尊いとするか、その価値観が問われます。物質的な豊かさによって、心の安心、平安を失うとすれば、むしろ乏しくても平安であるほうがはるかに願わしいことです。あり余る豊かさは、それを得るための労苦を補うどころか、泡沫のごとく消え去ってしまいます。私たちの求めるものは、平穏で安心して過ごす日の一日でも多くあることではないでしょうか。あなたは何によって平穏を得ようとしていますか。(KE)

強くして下さる方によって、何事でもすることができる

9月25日

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33bc

イエス様を信じるクリスチャンにとって、いつまでも自分の弱さを嘆くことは正しいことではありません。イエス様は、これからではなく、「すでに」勝利してくださったのです。かつては弱く、力なく、役立たずでしたが、今は、「強くして下さる方によって、何事でもすることができる」のです。「無理です」「出来ません」などの逃げ口上はやめて、弱さを通してあらわれるキリストの力を発動しましょう。(KE)

これほどまでにあなたを愛してくれるものがいるでしょうか。

9月24日

「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」イザヤ43:4

神様が私たちをどんなに愛しているかを語った、愛の言葉です。愛するゆえにどんなものでも犠牲にしても惜しくない。その証拠として、神様のひとり子、御子を世に遣わし、私たちの罪を贖う供え物とされたのです。これほどまでにあなたを愛してくれるものがいるでしょうか。この愛を心に抱いて生きてください。どんな困難にも打ち勝つことができます。(KE)

私たちのどこを取っても神様の子らしいところは全くありません。

9月23日

「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」ガラテヤ4:6

あなたも、私も、神様の「子」であると言われます。なんと驚くべきことでしょうか。私たちのどこを取っても神様の子らしいところは全くありません。しかし、どんな状態にあっても、ただ聖霊が宿ってくださるゆえに神様の子であり、その実証が「祈り」です。あなたも「アバ、父よ」と、子になりきって、神様を呼びましょう。(KE)

神様は悪いことではなく、良いことをされるからです。

9月22日

「事の終りはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。」伝道7:8

世間でも「終わりよければすべて良し」と言います。それは結果を見て言えることです。しかし、常にこの先は今より悪くなると考えがちです。昨今の世界情勢を見聞きすると、悪くなる一方としか思われませんが、神様のご支配を信じる時、必ずや「終りは初めよりも良い」と期待することができます。神様は悪いことではなく、良いことをされるからです。神様を信じて耐え忍ぶとき、あなたの人生の終りは今よりも良いものになります。(KE)

自分が何をしているのか、どこへ向かっているのか、なにも自覚していません。

9月21日

「ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」ヨハネ13:30

このとき、ユダは過越しの晩餐の席から離れて、出て行きました。明るく、楽しい歓談の場から、たった一人で夜の闇の中へ消えて行きます。その後姿を想像すると、やりきれなさと切なさがこみ上げてきます。自分が何をしているのか、どこへ向かっているのか、なにも自覚していません。私達も主の声を遮断し、サタンの誘惑に目をふさがれると、ユダと同じ闇の道を歩むことになります。(KE)

 

厳しい現実に会う時、自分の弱さがすぐ出ます。

9月20日

「ペテロは、『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。」マルコ14:72b

この事はペテロの生涯において最も痛恨事であったろうと思います。死をも、牢獄をもいとわない覚悟であったのですが、厳しい現実に会う時、自分の弱さがすぐ出ます。泣きつづけるペテロの心情を察するとき、同情を禁じえません。しかし、主は意志薄弱な者を造り変えて、栄光の生涯へ入れてくださったのですから、私達も大いに希望を持つことができます。(KE)

そうありたいと願いつつも、実際になると何もできない現実があります。

9月19日

「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。」テトス1:16a

「本音と建前」、「裏と表」など、二面的なあり方を表しますが、信仰の上でも同じことが起ります。口で言うことと、実際の行いとが食い違っている。そのような人をこのみ言葉に続いて「忌まわしい者」、「不従順な者」、「失格者」と言っています。確かに、そうありたいと願いつつも、実際になると何もできない現実があります。しかし、なんとか言行一致させようと努めなければ、信仰の恵みを知ることができません。(KE)

 

幼少のころから今に至るまで、数々の出来事を通り越してきました。

9月18日

「わたしはいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべての事を考え、あなたのみ手のわざを思います。」詩篇143:5

年を取るにつれて、今のことより過去のことを思い出すことが多くなります。そのような話ばかりするため、若い人から敬遠されますが、幼少のころから今に至るまで、数々の出来事を通り越してきました。しかし、ただ懐かしみ、武勇談を語るのではなく、すべての事の中に、神様の測り知れない摂理、み思いがあり、備えられたことを感謝することが大切です。(KE)

その方は「できない事」のない方です。

9月17日

「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27

神様は「主」であり、「神」であると繰り返し聖書で語っています。それは、私たちが神様を忘れて、自分が「主」となり、「神」になっているからです。人生にはいろんなことが起ってきますが、あのことも、このことも、それら全てを司り、統べ治めているのは神様であることを信じましょう。その方は「できない事」のない方です。今日も神様の前にひれ伏して従いましょう。(KE)