7月22日
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」第二コリント7:10
かつて「悲しみよ、さようなら」という映画があったことを覚えていますが、悲しみを喜ぶ人はだれもいません。避けられないとすれば、与えられた悲しみを無駄にする手はありません。悲しみの中で神様の御心に探り、神様のみ思いに添うとき、悔改めから救いへと導かれます。神様から離れて、悲しみを道連れにするとき、望みなき死へ落ち込んでしまいます。(KE)
7月22日
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」第二コリント7:10
かつて「悲しみよ、さようなら」という映画があったことを覚えていますが、悲しみを喜ぶ人はだれもいません。避けられないとすれば、与えられた悲しみを無駄にする手はありません。悲しみの中で神様の御心に探り、神様のみ思いに添うとき、悔改めから救いへと導かれます。神様から離れて、悲しみを道連れにするとき、望みなき死へ落ち込んでしまいます。(KE)
7月21日
「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」ローマ6:16
人は弱いもので、何かにすがらなければ生きていけません。それは人が神様にすがって生きるようにと造られたからです。問題は何にすがっているかによります。なにものにも従っていないと思っても、気づかないうちに、お金、仕事、友達など、神様以外のものを頼っています。今、あなたは何の僕でしょうか。(KE)
7月20日
「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる。」箴言25:21-22
「敵」にパンや水を与えるという場面を日常生活に想像することは出来ませんが、敵対する者に「善」をもって応答することはイエス様も薦めていることです。この言葉の真意は復讐を神様にゆだねることです。それには神様が居られること、全てをご存じであること、正しく報われる方であると信じなければ出来ません。(KE)
7月19日
「われわれの神、主は、何事をされるにも、正しくあらせられます。」ダニエル9:14b
どんなことであっても、神様のなさることには間違いがないとする。これが神様を尊ぶ基本です。現実の生活は人のやっていることばかりだから、間違いもあれば、失敗もあります。神様がしておられるという保証があれば、なにがあっても安心しておれるのですが、それがない。しかし、信仰に立つとは、人のわざに見えても、その背後に神様のわざがあると信じるのです。人のわざも、大小を問わず、神様の企みと計画に導かれていると知るべきです。(KE)
7月18日
「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。」創世記3:9
天地創造によって造られた人(アダム)とその助け人(エバ)とは神様の言葉に従わないで罪を犯しました。その結果、エデンの園を追放されました。一連の記事は神様の処罰の経過を記したものに思われますが、その背後に神様の愛が潜んでいます。繁みに隠れた二人に神様は呼びかけました。「あなたはどこにいるのか」と。これはまさに神様が二人を愛しているあかしです。なんとか助けたい、赦したいとの神様のみ思いを知ってください。(KE)
7月17日
「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び…。」エペソ1:4
私たちが天地創造の神を知り、救い主イエス様を信じるようになったのは何ゆえであったか、考えると不思議です。世間には数え切れないほどに神仏と称するものがあります。間違って他のものに帰依したかもしれません。しかし、神様はあなたを救うことをはるか昔から決めて、神様の選びによってこうなるようにと定め、導かれたのです。ただ神様の恵みによって今あるのです。(KE)
7月16日
「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」第一コリント1:28
各種の選挙がおこなわれますが、候補者は自分がいかに有能かを訴えて、選ばれようとします。しかし、神様の選びは正反対です。有るか無いか分らない存在、「無きに等しい者」を選んでくださるのです。それは、神様の力、栄光をあらわす器として用いるためです。この世で重んじられる者であったら、神様の力より、その人の力が賞賛されるでしょう。神様の道具とされることは幸いです。(KE)
7月15日
「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。」第一ヨハネ4:16ab
なんと頼もしい確信ではないでしょうか。神様が愛であると信じるほど幸いなことはありません。神様は人生諸般あらゆることを知り、支配し、備えられる方です。その方が愛であるなら、どんなことをされても動揺しません。全てを最善にしてくださると言えるからです。しかも、その愛を知っているばかりか、信じていると告白しています。私たちも負けずに告白しましょう、神は愛であると。(KE)
7月14日
「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」 マルコ13:32
「その日、その時」とは終末のとき、世の終わりの日のことです。人心が荒廃し、世が衰退し始めると、終末を説く者たちに惑わされます。確かに、存在する全てのものは消滅するときがきますが、それがいつであるかは誰も知りません。こればかりは神様の専権事項です。しかし、分らないから無関心でいいとは言えません。いつ、どんなときにそうなっても大丈夫なように、備えを怠ってはなりません。(KE)
7月13日
「万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。」詩篇84:12
「さいわい」の条件は人それぞれで違います。「お金があれば幸い」と言う人、「友達がいるから幸い」と言う人、「熱中できる仕事があるから幸いだ」と言う人などなど。また、そのような「さいわい」の条件は変化し、消失してしまいます。しかし、神様は永遠不変です。そればかりか、出来ないことのない方、全てのものの供給者です。この方により頼むならば、なにひとつ不足はありません。これこそ「さいわい」の極みです。(KE)