望みも、喜びも、平安もなく、つぶやきと苛立ち、憤りと不安や焦りに囲まれています

8月12日

「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」ヨハネ1:9

 かつてギリシャの哲学者が輝く太陽のもと、提灯を灯して「暗い、暗い」と言いながら街中を歩いたとの故事があります。彼は人の心の闇を指摘したのでしょう。現代も闇に覆われた時代ではないでしょうか。物質的な豊かさを誇り、きらびやかな光に満ち、どこにも暗闇などないように見えますが、望みも、喜びも、平安もなく、つぶやきと苛立ち、憤りと不安や焦りに囲まれています。この闇を取り除くには「光」が必要です。イエス様こそ、この光です。(KE)

心が頑なになったとき、出来るだけ早く素直に忠告を聞き入れ、すぐに心をかえることが大切です

8月11日

「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」ヘブル3:13

 心が頑なになるとき、そのきっかけは実にたわいもない、面子やプライドなど、小さなことではじまります。そこから争いや対立、憎しみ合うことになってとんでもない結果を招きます。それはまさに罪のしわざです。そうならないために、心が頑なになったとき、出来るだけ早く素直に忠告を聞き入れ、すぐに心をかえることが大切です。遅くなると厄介です。(KE)

私たちに最善の事を思い図ってくださるのです

8月10日

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」ピリピ4:6

 思いわずらうとき、私たちが神様を忘れているときです。神様は私たちのお父さんですから、子供である私たちが喜んで、望みに輝いていることを願っているばかりか、独り子の命すら惜しまないほどに愛しておられるので、私たちに最善の事を思い図ってくださるのです。“祈れ”“求めよ”と勧めてくださいます。このような素晴らしい宝を腐らせてはなりません。(KE)

弱さや疲れを覚えるとき、エネルギーの源なる神様に求めようではありませんか

8月9日

「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31

 私たちは神様から与えられたもので生きているに過ぎません。燃料の切れた車は単なる箱であって、無用の長物です。同様に、神様からあらゆる力が供給されなければ何もできない無力なものです。弱さや疲れを覚えるとき、エネルギーの源なる神様に求めようではありませんか。主は求める者に惜しみなく力を注いでくださいます。(KE)

イエス様を信じる私たちは孤独ではなく、見えない主が私たちの内に宿っておられます

8月8日

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」第二テモテ2:8

 “福音”とは“良きおとずれ”ですが、それはイエス様ご自身のことです。イエス様は私たちの罪の犠牲として神様の呪いを受け、死んでくださいました。しかし、よみがえって、いつもどこにでも私たちと共に居て下さるのです。イエス様を信じる私たちは孤独ではなく、見えない主が私たちの内に宿っておられます。今日もこの方と語らい、交わり、問いかけ、聞きつつ生きるのです。(KE)

たとえ悲しみや苦しみであっても、無駄な事、無意味な事などは一つとしてありません

8月7日

「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」第一テモテ4:4

 神様によらないものはありませんから、全て良いものと言えます。事の良し、悪しを言うのは人の勝手な言い分であって、神様の御心とは違います。人にとって不幸な事、嫌な事でも、人知を超えた神様の摂理の中にあるのです。たとえ悲しみや苦しみであっても、無駄な事、無意味な事などは一つとしてありません。神様のなさることと信じ感謝して受けるとき、喜びと賛美に変わります。(KE)

私たちも恐れに囚われるときがあります

8月6日

「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。」使徒7:55

 ステパノは迫害する者たちを恐れず、投げつけられる怒りのつぶてを正面から受けて立ち、殉教しました。彼は怒り狂った者たちの背後に栄光の主を見ていたのです。私たちも恐れに囚われるときがあります。それは周囲の状況や人々、迫ってくる様々な危険と思われるものに目を奪われるからです。そのようなときこそ、御霊によって心の目が開かれ、よみがえったイエス様を見ようではありませんか。(KE)

すべての事象の背後に、神様の御心を認めて、次なるわざを期待していくのが信仰です

8月5日

「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。」詩篇27:14

 万物は神様によって造られ、保たれ、動かされています。私たちの日常生活すら、神様のご支配のもとで過ぎていくのです。どんなに小さなことでも神様によらないものはありません。だから、人の理解できないことがあるのは当然のことです。すべての事象の背後に、神様の御心を認めて、次なるわざを期待していくのが信仰です。人の浅はかな知恵や知識で先走らずに、主が備えて下さる「時」と「わざ」を待ち望みましょう。(KE)

みことばをしっかり握っていると、思いがけない知恵や力、慰めや望みなどが湧いてきます

8月4日

「わが子よ、わたしの言葉を守り、わたしの戒めをあなたの心にたくわえよ。」箴言7:1

 人が命にあふれて生きるのは、神様からの命が注がれるときです。その命は神様のことば、即ちみことばです。聖書のことばほど、不思議なものはありません。解るとか、解らないにかかわらず、単純に信じてみことばをしっかり握っていると、思いがけない知恵や力、慰めや望みなどが湧いてきます。大切なことは単純素朴に信じることであって、理解し納得しようとすると、命が消えます。みことばを頭にではなく、心に置いて下さい。(KE)

イエス様を信じるとき、主の死とよみがえりに一体化されます

8月3日

「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ4:25

 イエス様は罪のない神の御子でしたが、わたし達を救うために十字架にかかり、墓に葬られました。しかし、三日目の朝早くよみがえられたのです。この“死”と“よみがえり”は私たちのものです。イエス様を信じるとき、主の死とよみがえりに一体化され、不義なるわたし達がキリストの義を纏い、無代価で永遠の命に導かれるのです。これこそ福音です。(KE)