罪とは神様から離れて、人が自分勝手に生きようとすることです

3月24日

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイ9:13b

 イエス様がこの世に来られたのは罪人を救うためでした。ただ、イエス様の救いをいただくには自分が罪びとであるとの自覚がなければ得られません。本来、人はすべて罪人でありますが、多くの人々はそのことに気がつかず、自分を「義人」、罪なき者としていますから、イエス様とは関係がないのです。罪とは神様から離れて、人が自分勝手に生きようとすることです。その結果、具体的な悪が生まれてきます。主は今日も「罪人」を招いています。(KE)

終末が終わりではなく、新しい始まりなのです

3月23日

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。」黙示21:1

 使徒ヨハネは聖霊に満たされて終末に続く幻を見ました。天も地も全てが消滅し、その代わりに「新しい天と新しい地」が備えられると言うのです。言うならば、終末が終わりではなく、新しい始まりなのです。となると、なんだか楽しくなるではありませんか。どのような新天新地であるか、具体的にはわかりませんが、神の都エルサレムと言われるように、神様の栄光に満ちた所に違いありません。終わりの時を大いに期待したいものです。(KE)

十字架に表された神様の愛以外にありません

3月22日

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」第一ヨハネ4:18

 「愛」と「恐れ」は全く相反するものです。夫婦であれ、親子であれ、恋人同士であっても、その関係に恐れが潜んでいるなら、愛が全うされていません。「完全な愛」は恐れを乗り越え、それを消し去ってしまいます。このような愛はどこにあるのでしょうか。それはただ十字架に表された神様の愛以外にありません。神様の愛に満たされるとき、あなたも愛の人となることができます。(KE)

「…せよ」とは積極的に関わるあり方です

3月21日

「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」ルカ6:31

 この言葉は日常生活の行動基準と言ってもよいでしょう。殊に、「…せよ」とは積極的に関わるあり方です。“触らぬ神に祟りなし”とか、“見ざる、言わざる、聞かざる”などに見られる消極的な逃げの構図とは反対です。イエス様は神の位を離れて、あえて人の世に降り、私たちの人生の真っただ中に飛び込み、積極的に干渉してくださるものとなったのです。私たちの望んでいることを成し遂げるために命をも賭けてくださったのです。(KE)

生きるとは何か、命はなんであるか

3月20日

「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある。」ルカ4:4

 ヨルダン川で洗礼を受けたイエス様は聖霊に導かれて荒野での試練を受けました。サタンは断食のため空腹を覚えたイエス様に石をパンに変えるよう勧めました。人が何によって生きるものであるか、究極の選択を求められたのです。これに答えるには、生きるとは何か、命はなんであるかを明確にしなければ解答できません。私たちは常に繰り返しこのことを問われています。あなたは何によって生きていますかと。(KE)

神様と折り合えなくなることほど不幸な事態はありません

3月19日

「それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」マタイ27:46b

 十字架で召されるとき、イエス様が語った言葉ですが、愛する父なる神様との交わりが絶たれた苦悩の叫びです。神様との親しい交わりがあるかぎり、主はどんな境遇に置かれても、それを気に掛けることもなく、平然と過ごすことができましたが、この時は違っています。私たちの感じる苦しみも同じです。神様と折り合えなくなることほど不幸な事態はありません。常に神様との交わりを失わないように注意したいものです。(KE)

八方ふさがりのなかに置かれても、幸い天に通じる窓は開かれています

3月18日

「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。」詩篇130:5

  万策尽きて、望みを失うような時が人生にはあります。そのような時、人は何によって希望をつなぐことができるでしょうか。八方ふさがりのなかに置かれても、幸い天に通じる窓は開かれています。なにものもふさぐことのできない救いの道を知っているのはなんと幸いなことでしょうか。失望落胆の中にあっても、み言葉をしっかり握って立つとき、必ず想像だにしない道が開かれます。(KE)

確かな方が聞きっ放しではなく、「答える」との約束です

3月17日

「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」エレミヤ33:3

 自分の力や知恵の及ばないことになると、ほかの人に助けを求めます。しかし、相手もまた同じ弱い無知な者たちにすぎません。ここで「わたしに」と言われる方は出来ない事のない、全能なる神様です。この方ほど確かな方はいません。しかも、聞きっ放しではなく、「答える」との約束です。ただイエス様の取り成しによって、こんな恵みをいただくのですから、感謝して呼び求めましょう。(KE)

疲れ弱ったとき、あなたは何に頼りますか

3月16日

「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31

 この言葉に先立って、「年若い者も弱り、壮年の者も疲れはてて倒れる」とあります。体力気力がどんなに充実していても、人は必ず疲れ弱ります。そのようなとき、あなたは何に頼りますか。肉体は休息すれば元気を取り戻すでしょうが、心、気力が萎えるとき、神様からのエネルギーをいただく以外にありません。頑張らずに、主のご愛のみ手にゆだねて、力の満ちるのを待ちましょう。(KE)

信仰による人の交わりは不思議なものです

3月15日

「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」マルコ3:35

 家族や親族は血縁関係によるものです。その関係を土台にして社会は成り立っていますが、イエス様の救いはそれとはまったく違った関係を作り出したのです。主の十字架のあがないを信じて救われた者たちを神の家族としてくださいました。それはイエス様の十字架の血によって結ばれた兄弟、姉妹であって、ただ信仰によるものと言えます。このような人の交わりは不思議なものです。(KE)