6月6日
「わたしの生れた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。」エレミヤ20:14
大人も子供も自分の誕生日を祝うのはうれしい事です。“おめでとう”と祝福を受けます。しかし、そう言える人ばかりではありません。み言葉のように自らの出生を厭い、呪うとはまことに不幸の極みです。それは神様に抗う自分があるからです。確かに、筆舌に尽くしがたい困難や苦しみに遭うと、そう思うのも無理からぬことでしょうが、神様の摂理を信じ、この世に生を与えた方を尊び敬うことが、人としての道です。(KE)
6月6日
「わたしの生れた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。」エレミヤ20:14
大人も子供も自分の誕生日を祝うのはうれしい事です。“おめでとう”と祝福を受けます。しかし、そう言える人ばかりではありません。み言葉のように自らの出生を厭い、呪うとはまことに不幸の極みです。それは神様に抗う自分があるからです。確かに、筆舌に尽くしがたい困難や苦しみに遭うと、そう思うのも無理からぬことでしょうが、神様の摂理を信じ、この世に生を与えた方を尊び敬うことが、人としての道です。(KE)
6月5日
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」イザヤ55:8
神様と人との関係は創造者と被造物であって、両者は決して同じ平面に立つことができません。神様は絶対的に上なる方であり、私たちは下にあるものです。この秩序が崩れると、様々な不都合なことが生じてきます。常に、自分を神様の下に置くとき、すべてが適材適所に嵌(は)められて順調に進みます。神様の思い、道が私たちの人生に貫かれるとき、価値ある人生となります。(KE)
6月4日
「恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。」ルカ12:5ab
人は「恐れ」に囚われると、弱くなり、想像できない醜態を見せます。それは神様を畏れない結果です。どんなことも神様によらないものはありません。この言葉に続いて、すずめ一羽ですら神様のゆるしなく、地に落ちることはないと言われています。まさに神様の支配にあり、この方こそ万物を裁かれる方です。まず、恐れるべきものを恐れるとき、他のものを恐れなくなります。(KE)
6月3日
「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。」第一コリント1:8
神様の救いは完全なものですから、ひとたび救われた者を必ず完成させてくださいます。人は自分の力やわざで救いを完成することができません。それをなさるのは神様です。私たちのなすべきことは、ただ主のみことばを信頼して、御霊の導きに従う事を努めるだけです。これはぼんやりしていてはできません。常に自覚して、励むことが大切です。(KE)
6月2日
「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」ローマ1:16
福音とはイエス・キリストのことです。イエス様は神の御子でした。しかし、人の罪のあがないとして世に降り、十字架に死んでくださいました。イエス様は死の中からよみがえって、信じる者はだれでも永遠の命に加えられると約束されました。この破天荒ともいえるイエス様の生涯は、まさに神様の力の顕現です。私たちもイエス様の十字架を誇りとして、永遠の命の希望に生きようではありませんか。(KE)
6月1日
「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。」ヨハネ16:23c
なんと素晴らしい約束ではないでしょうか。父なる神様は私たちの祈りに答えて下さる。その根拠は「わたしの名によって」、イエス様が取り次いでくださるからです。イエス様の願いを父なる神様は拒むことはありません。祈りはただ主の功績によって聞かれるのです。祈っても答えられないとつぶやくのはお門違い。聞かれなくても、答えられなくても当然です。イエス様の慈愛にすがりつつ、祈ろうではありませんか。(KE)
5月31日
「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」コロサイ1:13
神様の救いがなんであるかをはっきり語ったことばです。人は自分の力で生きることができないものです。そのために他の力を借りて生きようとしますが、間違った力に支配されていたのです。「やみの力」はまさに私たちを失望や不安、恐れや悲しみなど、闇に閉じ込める力です。しかし、御子は天から下って闇を追い払い、光の中へ、御子の支配下に置いて下さいました。今日も主の支配に委ねて輝いていましょう。(KE)
5月29日
「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」黙示録3:19
神様の本質は徹底して“愛”です。それゆえに神様は私たちを放置しておくことができずにさまざまな手段によって神様の標準に引き上げようとなさいます。悩みや困難、苦しみや悲しみに遭うのはそのためです。そのようなことに当たってなすべきことは自らを省みることです。事の原因理由の探索ではなく、神様とどのような関係を築いているか、神様のみ思いに添うことが求められるのです。(KE)
5月28日
「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。」ピリピ2:14
「つぶやく」「疑う」、これは神様が嫌われることです。なぜなら、どんなことも神様によらないものはないので、つぶやいたり疑ったりするのは神様に逆らい敵対することだからです。父として、母として、夫として、妻として、子供として、各人誰もがそれぞれに与えられた役割があります。それは神様が深い配慮のもとに与えておられる大切な使命です。「自分ばかり」「割が合わない」「どうして?」「なぜ?」などなど、次々と心に湧いていませんか。(KE)
5月27日
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」ヘブル12:2a
人生を生きる姿を長距離ランナーに例えられます。まさに山あり谷あり、さまざまな厳しい条件のなかで、休まずゴールを目指して走りつづけるのですから、人生もまた同様です。もし、この長距離走を自分一人で走るなら、すぐに脱落するでしょう。周囲に同じ苦労を耐えている人がいますから、耐えられます。十字架の死をも乗り越えて勝利してくださったイエス様を見つつ走るなら、どんなにか大きい励ましでしょうか。(KE)