なにかできることがあるなら、それは神様の憐みであり、恵みです

5月26日

「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17

 ともすると、人はすぐに自分が主人公になり、自分を誇ろうとします。人に自慢せずとも、ひそかに心で誇ります。しかし、それは神様を軽んずることです。この世にあること自体、命も、時間も、健康も、仕事も、どれ一つとって神様によらないものはありません。なにかできることがあるなら、それは神様の憐みであり、恵みです。自分の働きはありません。このことを徹底して、神様に感謝しましょう。(KE)

何を敬い、尊び、畏れるかによってあなたの在り様がはっきりします

5月25日

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」第一テモテ4:7

 文語訳によると、後半の言葉は「また自ら敬虔を修業せよ」となっています。「敬虔」という言葉はまさに死語となりかけていますが、これこそ信仰の精髄と言っても過言ではありません。神様と人との絶対不変の関係を明示する言葉だからです。神様を敬い、尊び、畏れるべき方とするとき、人ははじめて謙遜になることができます。また、何を敬い、尊び、畏れるかによってあなたの在り様がはっきりします。(KE)

今日も主はあなたを守り、導いてくださいます

5月24日

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」ヨハネ10:27

  イエス様は私たちの主となるためによみがえられ、目には見えませんがいつでもどこにでも共にいてくださいます。それは羊飼いが羊の群れを守り、導き、命を得させるように、私たちを命の道へ導くためです。私たちは自分の知識や判断で生きるように造られていません。創造者の霊に導かれて生きるものです。今日も主はあなたを守り、導いてくださいます。主の御声を聞きつつ、主に従って行きましょう。(KE)

素直になって神様のもとに立ち返ろうではありませんか

5月23日

「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。」詩篇139:7

 どんなに神様を否定しようと、また神無き世界を求めようとも、神様はあきらめることなく、執拗にあなたを掴んでは離しません。それは私たちが神様を離れるなら、まさに永遠の滅びであり、死だからです。愛するがゆえに無関心でおれません。逃げ回ることをやめて、素直になって神様のもとに立ち返ろうではありませんか。神様はあなたを祝福し、恵もうとしているのです。(KE)

神様の声が届かなくなっています

5月22日

「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである』。」アモス8:11

 世界の各地で飢餓に苦しむ人々がいます。それは「パンのききん」ですが、もっと深刻なききんが我が国に広がっています。魂の枯渇です。神様を畏れることがなく、神様のことを尋ねようとの思いもなく、神様の声が届かなくなっています。その結果、愛がなくなり、望みが持てなく、猜疑心に囚われ、苛立ち、無気力になっているのではないでしょうか。(KE)

救いとは、人生・生活が神様、主のものとなることです

5月20日

「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」ローマ14:8

  救いとは生きる目的が変わることです。自分のもの、自分のためであった人生・生活が神様、主のものとなることです。生き方の大前提が変わるのですから、日々の生活がすべて変わります。なによりも、自分が責任を負わないでいいのですから、これほど楽なことはありません。あなたが人生全般を握っているかぎり、安心はありません。所有権を手放しましょう。(KE)

神様が喜んでくださるのは私達が信仰に生きるときです

5月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」 ヘブル11:6a

  神様が喜んでくださるのは私達が信仰に生きるときです。捧げ物や犠牲的な奉仕、慈善的事業など世間が称賛する外的行為を喜ばれるのではありません。勿論、それらが信仰に因るものなら、そのゆえに神様は喜ばれますが、神様は常に動機を探られます。どんなことでも神様のゆえに、神様の報いを信じてなすならば、どんなに喜ばれることでしょう。今日も神様に喜ばれる一日を過ごしてください。(KE)

真の父を知り、信頼するならば、幼子のような平安が得られます

5月18日

「また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」マタイ23:9

  私たちは、父といえば肉親の父を思いますが、それは地上にある間のことにすぎません。「父」としての役割・力を真に体現しているのは神様です。肉親の父は限られたものですから、無力・無知です。不完全な故に子たちは不安を覚えるのです。しかし、真の父を知り、信頼するならば、慈父の手に抱かれた幼子のような平安が得られます。(KE)

人が共感し共有することは不可能ですが、神様は私たちの心の隅々まで知っておられます

5月17日

「心の苦しみは心みずからが知る、その喜びには他人はあずからない。」箴言14:10

 苦しみや喜びは心で感じ、知るものです。同じことであっても、人によって感じることが違います。苦しみや喜びはその人自身のことであって、他者は感知しえません。推測に基づいて同情はできても、共感し共有することは不可能です。その意味で、人は孤独だといえますが、神様は私たちの心の隅々まで知っておられます。これこそ私たちの慰めであり、励ましです。苦しみが自分だけであるとすれば、喜びもまた自分だけのものです。(KE)

神様は血判を押した契約書をあなたに差し出しています

5月16日

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」マタイ26:28

  最後の晩餐といわれる夕食の席でイエス様が語った言葉です。ここで主ははっきりとご自分の十字架が何を意味しているかを明らかにしています。「罪のゆるし」を保証する契約であると。契約は一方だけでは成立しません。双方の同意が必要です。神様は血判を押した契約書をあなたに差し出しています。しかも無条件です。さて、あなたはどうしますか。主の言葉を素直に感謝してうけるなら、なんと幸いなことでしょう。(KE)