5月15日
「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。」使徒20:19
パウロはよみがえられたイエス様に出会って人生が一変しました。生きる目的が変わったのです。自分のため、世のため、家族のためではなく、主のために生きる。それは主に仕える下僕としての生涯です。しもべは主人に喜ばれることを第一に考えます。パウロは主に仕えるゆえに困難や迫害に遭いましたが、自分を捨てて、主に喜ばれる道を歩みました。(KE)
5月15日
「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。」使徒20:19
パウロはよみがえられたイエス様に出会って人生が一変しました。生きる目的が変わったのです。自分のため、世のため、家族のためではなく、主のために生きる。それは主に仕える下僕としての生涯です。しもべは主人に喜ばれることを第一に考えます。パウロは主に仕えるゆえに困難や迫害に遭いましたが、自分を捨てて、主に喜ばれる道を歩みました。(KE)
5月14日
「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」エペソ5:17
主のために生きるとは、私たちの生活全てが、有形無形を問わず、主に喜ばれるものとなることです。常に、何をするにも、また語るにも、これが主によろこばれることだろうかと考えなければなりません。主が喜ばれるのは御心にかなうことですから、たえず主の御旨を求めることになります。ただ自分の気分や感情、損得利害、情欲などに振り回されず、主の御旨に全く従い、主に喜ばれる日々を送ってください。(KE)
5月13日
「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」第一ペテロ2:2
確かに乳飲み子はお乳を飲むこと、眠ることに専念します。それによって成長するのです。私たちはいまさら成長する余地はありませんが、魂はどうでしょうか。身体を養うに熱心ですが、魂が養われているでしょうか。それがなければ永遠の命につながることができません。そのために必要なものは「霊の乳」であるみことばをしっかりいただくことです。(KE)
5月12日
「人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません。」エレミヤ16:20
日本には「八百万(やおよろず)」もの神々がいるともいわれています。誰も数えたわけではないでしょうが、それは人の心の不安や恐れを現したものです。思いがけない不幸や災難、自分の力の及ばない事態や問題にあたって、超自然的な力を求めざるを得ないからです。それは本来人に備わった霊の働きですが、残念ながら求めるものが違ってしまったのです。真の神様を求めることが大切です。(KE)
5月11日
「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩篇8:4
神様がひとり子を十字架につけるほどに私たちを愛してくださるとは、なんとおどろいたことでしょう。そうしてもらう値打ちや価値があるというのでしょうか。ただ、神様の一方的な愛によると言うほかありません。これほどの愛を抱いて下さる方があなたのために悪しきことをなさるでしょうか。そればかりか、休みなく私たちにみ心を向けてくださっているのです。感謝するほかありません。(KE)
5月10日
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」イザヤ55:8
人は神様の思いや計画、考えを知ることができません。森羅万象、全てのものが神様の支配にあるのですから、人がいくら頑張ってみても、神様のなさることを予測するなどできるはずはありません。だから、分からない事、知らない事、できない事があるのは至極当然。そんなことで悩んだり、悲観するのは無駄です。どう転んでも神様のご支配から離れることはできないのです。だったら、神様に任せましょう。(KE)
5月9日
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16
神様は創世の初めから、私たちを愛してやまない方です。しかし、同時に「義」なる方ですから、不義や罪をないがしろにすることはできません。厳しく怖い神様と思われるのはそのためです。愛と義を両立させるただ一つの道はひとり子イエス様を十字架につけることでした。それによって、神様は「愛」をあかしされたのです。十字架を見上げて、神様の愛に潤されましょう。(KE)
5月8日
「主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。」詩篇34:5
神様は光のような方であると言われています。光には陰とか曇りなどはありません。神様に心を向けるとき、神様の光が心を照らし、内なる汚れや曇り、陰になっているところなどを探られます。しかし、それによって私たちを清めて下さるのです。神様の光にいつも照らされているとき、誰に対しても恥じたり、後ろ指を指されるようなことはありません。主よ、今日もあなたの光をてらして、心を清めてくださいと求めましょう。(KE)
5月7日
「各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。」第二コリント9:7
神様が私たちに求められるのは、どんなことにあっても「自発」のわざであることです。強いられたり、義理や人情に流されてすることを主は徹底して排除されます。それが当然なすべきことであっても、その動機が「自発」でなければ神様の喜ばれるものとなりません。しかも、自発の思いの中に主の愛への応答であることが不可欠です。主の喜ばれる道を歩んでください。(KE)
5月6日
「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」第一コリント6:20
「買い取る」とは所有権が代価を払った者へ移転することです。私たちは本来神様の所有でした。ところが、持ち主の手から失われて、神様でない者に所有されていたのです。しかも、その持ち主は悪意に満ち、混乱と争い、我利我欲などによって私たちを悲惨な者に変えてしまいました。イエス様を信じるとき、あなたの所有者が神様に変わります。今日も神様はあなたをご自分の目的に用いられます。(KE)