剣を取ることはイエス様の道とは相反する道です

3月4日

「そこで、イエスは彼に言われた、『あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる』。」マタイ26:52

 ゲツセマネの園にイエス様を捕らえようと群衆がやってきました。イエス様のそばにいた者が剣を抜いて切りかかりました。主はそれを止めて言われた言葉です。剣を取ることはイエス様の道とは相反する道です。しかし、当時の多くの人々は剣の道(革命や内戦)を望んでいたでしょう。そのため、十字架上のイエス様の姿に失望し、怒りを抱きました。主は父なる神様の壮大なみわざにゆだねておられたのです。(KE)

神様からの警告を聞き流して、自分の感情や欲望に支配される姿こそ私たちです

3月2日

「イエスを裏切ったユダが答えて言った、『先生、まさか、わたしではないでしょう』。イエスは言われた、『いや、あなただ』。」マタイ26:25

 人は愚かな者で、自分が何をしているか、それがどんな結果になるかを悟ることができません。ユダもはっきり主から指摘されながら、まだ気づかないのです。これほどあからさまに言われていながら、やってしまうのはユダばかりではありません。神様から細い声で警告を聞きながら、それを聞き流して、自分の感情や欲望に支配される姿こそユダであり、私たちです。(KE)

主は命がけでそれを成し遂げてくださったのです

3月2日

「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」ヨハネ13:14

 最後の晩餐と言われる席で、イエス様は弟子たちの足を洗いました。十字架の清めを語る行為でもあり、汚れた足を洗うことによって、その人の弱さや欠点を補い、支えることでもあります。人は喜びを共有することもできませんし、ましてや他者の負の部分を共有することも不可能に思えますが、主は命がけでそれを成し遂げてくださったのです。主は「互いに」と言われます。(KE)

信じる者は幸いです

3月1日

「彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」マルコ12:25

 人が死ぬとき、全てが消え去って無になるのではありません。魂は神様のもとへ帰ると語られています。やがて万物が終わるとき(世の終わり)すべての魂は霊の体によみがえり、神様の前に立たせられます。その後、永遠のみ国で神様に仕えるもの(御使のごとく)として生きるのです。決して、地上の生活を再現するのではありません。聖書はそのように語っています。信じる者は幸いです。(KE)

合理主義は役に立ちますが、神様を敬うにはむしろ弊害となります

2月29日

「そして彼らに言われた、『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」マタイ21:13

 過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへ来られたイエス様は、神殿で商売している人々を追い払いました。彼らは犠牲の動物を売ったり、献金の両替をしていた商人です。礼拝に来る人の便宜を図っていたのですが、その結果、神様をないがしろにする罪を犯したのです。合理主義は役に立ちますが、神様を敬うにはむしろ弊害となります。いろんな場面でこのご都合主義が見え隠れします。ご用心。(KE)

滅びるくらいなら、信じてみてはどうでしょうか

2月28日

「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」第一コリント1:18

 神様はイエス様の十字架を信じる者を義とし、罪をことごとくゆるしてくださると言われます。しかし、十字架は二千年以上も前のことであり、そんなことを信じても意味がないと言う人もいます。そうであるかぎり救われません。滅びです。滅びるくらいなら、信じてみてはどうでしょうか。主の十字架によって、私は赦された者であると信じるとき、後付で救われた喜びが湧いてきます。(KE)

栄光のわざのためにイエス様が私たちを必要としておられます

2月27日

「もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう。」マタイ21:3

 イエス様はエルサレム近くで、弟子たちに子ろばを引いてくるように命じました。ろばは他の動物と違って何一つ取り柄のないもので、労働に使役されるだけです。まさに私たちの姿です。しかし、主は十字架への道行のために選んでくださったのです。栄光のわざのためにイエス様が私たちを必要としておられます。ろばの子になりきって、イエス様に手綱を握っていただきましょう。(KE)

今日もこの方によって造られ、生かされ、有らしめられているのです

2月26日

「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。」イザヤ45:7

 神様は私たちの想像を超えた大きな存在です。この方をどのように語ればよいか、言葉がありません。天も地も、宇宙も、森羅万象ことごとくを創造し、それらを一分一厘狂いなく持ち運んでおられます。今日もこの方によって造られ、生かされ、有らしめられているのです。人の世の幸・不幸も例外なくこの方によって創造されているのです。人間のわざ、知恵、力によるものはありません。(KE)

それは自分自身を神様に奉げる代償行為です

2月25日

「彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。」レビ1:4

 旧約聖書の時代、律法の定めに従い動物(牛や羊)を犠牲として神様に奉げました。それは自分自身を神様に奉げる代償行為です。私に代わってイエス様が神様の罰と呪いを受けてくださったと同じです。だから、犠牲を奉げようとする人はその犠牲の動物と同体であることを証しするために手を置きました。私たちも十字架に命を奉げたイエス様と一つになろうではありませんか。(KE)

神様の祝福が得られなくなり、心に恐れが生じるようになったのです

2月24日

「主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた。」サムエル上18:12

 サウル王は神様の言葉に背いて、捨てられました。それは直ちに王位から退けられたというのではありません。王位にありましたが、神様の祝福が得られなくなり、心に恐れが生じるようになったのです。これは神様を離れた魂の姿です。彼は疑心暗鬼に囚われ、不安にさいなまれて、安眠をも失います。身分や生活は変わらなくても、神様から離れたとき、人は必ず悪しき霊力に支配され、闇に引き込まれます。ご用心!(KE)